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何故、西洋医学に唯一の免疫を上げて治せる漢方医学が敗北したのでしょうか?更新2024.6.7

投稿日:2024年6月7日 更新日:

江戸時代に最も優れた漢方の「古方派」を確立した吉松東洞は「万病一毒説」を唱えてその時代の病気を完治させ一世を風靡させました。残念乍ら江戸の終わりに西洋医学が日本に入りだすと漢方の免疫を上げてすべての漢方学は衰えて行ったのです。何故、西洋医学に唯一の免疫を上げて治せる漢方医学が敗北したのでしょうか?

私は「現代の万病一毒説」つまり「万病ヘルペス説」を唱えてあらゆる難病を完治させていますが吉松東洞の「万病一毒説」と私の「現代の万病ヘルペス説」との違いは何処にあるのでしょうか?

まず日本漢方医学史の中の江戸時代に最も栄えた漢方古方派の復習もしながら吉益 東洞がどのようにして「万病一毒説」を唱えだしたかを勉強しましょう。中国や日本の漢方の歴史についてはここを読んでください。

吉益 東洞(1702年~1773年)の生涯。吉益 東洞は安芸の国、現在の広島の医家に生まれまた漢方医で古方派を代表する漢方医となり、歴史的にも、現代でも古方漢方医学の第一人者です。日本近代医学中興の祖であり、江戸中期の古医方派医学四大家の一人とされています。古方派医学の「四大家」はと誰ですか?後藤艮山・香川修庵・山脇東洋・吉益東洞です。江戸中期以降は後世方派を圧倒し、今日の漢方医学の主流派でもある。後世方派(ごせいほうは)とは後世派(ごせいは)とも言い、漢方薬の処方において、唐・宋以降の書籍をよりどころにする一派である。日本においては、主として金・元の医学を奉じる人々を後世派と称し、戦国時代の田代三喜及びその門人曲直瀬道三(『啓迪集』)・曲直瀬玄朔(『医学天正記』)親子を祖としている。江戸時代には岡本玄治・古林見宜・長沢道寿・堀正意・饗庭東庵・味岡三伯・香月牛山・岡本一抱・堀元厚ら名医が現れた。また、田代三喜や曲直瀬道三が「金元四大家」のうち李杲・朱震亨の説を主体にしたのに対して、饗庭東庵・味岡三伯・岡本一抱・堀元厚らは四大家の残り2人である劉完素・張子和の説を重んじたことから、東庵らの流れを分派としてみなす。なお、堀元厚の門人である国学者本居宣長も医学的にはこの流れを汲んでいる。この後世方派対して思弁的傾向が強いとする批判が現れ、『傷寒論』などの唐以前の古典と実証主義を重んじる名古屋玄医・後藤艮山らの古方派が台頭する一因となった。

吉益東洞は19歳のとき、発心して医学を学び始め、祖父政光(道庵)の門人である能津祐順に吉益流金瘡産科の術と金瘡(きんそう)外科を学んだ。その後古方医学を志して独学,30歳のころ万病一毒説を唱えた。金瘡(きんそう)外科とは刀剣,矢じりなどの金属製武器による切り傷(瘡)を手当てする外科医です。

独学で古今の医書を読破、ついにその当時流行の後世(ごせい)家医方を排し、古医方によるべきことを主張した。更にそののちも独学で『素問』をはじめとする医学の古典を精読したが,当時盛行していた金元流の医学に不信感を抱き,名古屋玄医,後藤艮山らの医説に共感を抱いた。『素問』とは「すもん」と読み「黄帝内経素問」(こうていだいけいそもん)。原著は紀元前200年頃(前漢)から220年(後漢)の頃にかけて編幕された医学理論、鍼灸理論の書。黄帝は伝説上の帝王であるが、黄帝と岐伯、伯高以下6名の医師との問答形式で書かれている。臨床に重きを置いた「黄帝内経霊柩」と合わせて「黄帝内経」と呼ばれる。「陰陽五行説」、「気」や「経路」の概念で医学を説いた原典。

吉益東洞は独学の末に独自の万病一毒説にもとづく古医方をとなえる。30歳ごろに万病一毒説を確立して,張仲景の『傷寒論』を基準として治療の方針を立てることを唱導した。『傷寒論』とは『傷寒論』は、後漢末期から三国時代に張仲景が編纂した伝統中国医学の古典。内容は伝染性の病気に対する治療法が中心となっている。傷寒論を書いた張仲景は古来から病気の根源は病原体であることに気がついていたのです。

吉益東洞によれば,生体に何らかの理由で後天的に生じた毒が疾病の原因であり,毒の種類はひとつしかない。一種類しかない毒のためにどうして万病を生ずるかといえば,それは毒の存在する部位が異なるためであるという。これは中国医学ではきわめて例外的な個体病理論的発想であり,同じ古方派の艮山の提唱した一気留滞説とは根本的に異なる。漢の張仲景の書いた「傷寒論」の医学理論である経験・実証に即したる古医方(こいほう)に帰ることを唱え、更に病気の原因を探求して「万病一毒説」を唱えたのです。

なぜ吉益東洞は「万病一毒説」の「一毒」を具体的に一つ明示できなかったのでしょうか?松本医学の「一毒」はherpesなのですが。『傷寒論』を重視したのですが、その中の陰陽五行説さえも後世の竄入(ざんにゅう)とみなし、観念論として排した。竄入は「ざんにゅう」と読み「誤ってまぎれ込むこと」です。そののち独学で『素問』をはじめとする医学の古典を精読したのですが,当時盛行していた金元流の医学に不信感を抱き,名古屋玄医,後藤艮山らの医説に共感を抱いた。

金元流の医学とは中国、金・元の時代に勃興(ぼっこう)した新しい医学をいう。宋(そう)代の商業の発達、富の都市集中に伴う伝染病の大流行に対応して、初め華北におこり、しだいに南に広がって定着した。その特徴は、それまでそれぞれ独自に発展してきた医学理論と臨床医学が結合してとらえられて生まれた新しい医学でした。

河北の劉完素(りゅうかんそ)は、古くからの医学理論の書物である『素問(そもん)』と、発熱性の病気の治療法を述べた『傷寒論』を具体的に結び付ける努力をし、その結果、体内に過剰な「火」があることが病気の原因であるとして、激しい寒涼剤を好んで用いた。

河南の張従正(ちょうじゅうせい)は、劉完素の説を受けて、病気の原因である外邪を、汗吐下の方法で除去することにより元気を回復できるとした。

河北の李杲(りこう)は、病気はむしろ内部環境によっておこると考え、「補中益気湯」を創製し、身体の補強によって病気の侵入を防ぐことができると説いた。

華中の朱震亨(しゅしんこう)は、李杲の説を発展させ、内部環境を重視し、新しい治療法を生み出した。彼のこの説は華中・華南で圧倒的な支持者・追従者をかちえた。以上の4人はそれぞれ異なった主張をもち、それぞれ流派をたて、金元流の医学と称され金元の四大家といわれる。この時代以降の中国医学に大きな影響を及ぼした。

 金元医学のうち、李杲、朱震亨の医学は室町時代に日本にも伝わり李朱医学と呼ばれ、江戸初期にかけて流行した。その学派を後世派とよび、曲直瀬道三(まなせどうさん)らの医家がそれに属する。

吉益東洞は30歳ごろに万病一毒説を立て,張仲景の『傷寒論』を基準として治療の方針を立てることを唱導した。「万病は唯一毒、衆薬は皆毒物なり。毒を似て毒を攻む。毒去って体佳なり」と万病一毒説を唱え、すべての病気がひとつの毒に由来するとし、当時の医学界を驚愕させた。万病は帰するところ体内に毒が生じて動くのが原因であり、それを体外に駆除すればなおるというのである。いくつかの著書のうち、この薬効論である1771年に書かれた『薬徴』がもっとも広く、かつのちにまで読まれた。『薬徴』は今でいう漢方薬理学です。

「薬徴」(やくちょう)は「傷寒論」、「金匱要略」から漢方を集めた処方集である自著「類聚方」の薬物53種について薬効、適応を完結に解説した。門人村井琴山がこれを追補して「薬徴続編」2巻、「薬徴続編付録」1巻を刊行、さらに尾台榕堂がこれらを校正して「重校薬徴」(1853)を著した。本書は「万病ー毒説」をとなえた吉益東洞がもっとも力をつくした著述である。後世に影響を与えた点でも右に出るものはないと称される名著を、大塚敬節先生が訓読し詳細な校注を加え、さらに重要用語は補注として詳しく解説。なお本書は、『日本思想大系63近世科学思想(下)』(岩波書店/1971年刊)に収載されていたものを復刻した。

吉益東洞(よします とうどう 1702-1773)は、名は為則(ためのり)、通称は周助、東洞は号です。

『類聚方(るいじゅほう)』は、古方(古医方)派である東洞の代表作で、1万部を売り、さらに版を重ね、後世の漢方医学に大きな影響を与えました。

東洞は、張仲景(ちょう ちゅうけい 150-219)の『傷寒論(しょうかんろん)』、『金匱要略(きんきようりゃく)』を重視しましたが、『傷寒論』における急性の熱性疾患を経過や病気の進行で分類する三陰三陽論(陽病を太陽、少陽、陽明、陰病を太陰、少陰、厥陰に分ける)ではなく、東洞自身が汎用した薬方約200と、経験していないが重要だとする18方を選び出して、処方別に組み替えて『類聚方』を作りました。各条文の後に条文を批評する言葉として東洞の意見を書いています。『金匱要略(きんきようりゃく)』とは「金匱要略」(きんきようりゃく)も3世紀に張仲景(ちょうちゅうけい)が書いたのですが「傷寒論」の姉妹編といわれる本書に記載された漢方処方は、日本の漢方で最も使用頻度の高い古典といわれています。「傷寒論」が急性熱病を対象としているのに対し、「金匱要略」(きんきようりゃく)は種々の内蔵病、精神神経病、婦人病など、主として慢性疾患の治療を対象として記述したものです。今日でも漢方生薬が現代の慢性疾患の治療で重視されているのは漢方生薬の効能の根本は免疫を上げることができるからです。しかも今も昔も治りにくい慢性の病気の原因は生き続けるストレスのために免疫が下がってヘルペスが増えてしまうからです。何故ならばヘルペスウイルスが地上に誕生したのは4億年前であり昔と比べてこんなに幸せな現代人でもヘルペス感染症による難病で悩み最後はストレスが増やしすぎた癌で死んでゆくのです。他の医者は誰も言いませんが。

この毒を制するため、強い毒を制する作用をもつ峻剤を用いる攻撃的な治療を行った。峻剤とは「しゅんざい」と読み「きつい薬」とか「厳しい薬」という意味です。峻下剤(シュンゲザイ)とは?一グラム以下のわずかな量で強い作用を起こす植物性下剤。この一毒を制するために,治療には反応の強い,攻撃性の強い漢方薬を用いて,毒の排出をはかったとされているが峻下剤(シュンゲザイ)を大量に使ったわけでもないのです。また毒の留滞するところは腹の場合が多いとして,脈診よりも腹を按じて病を診察する腹診に重きをおいたのです。いずれにしても吉益東洞の30歳ごろに唱えだした万病一毒説の「一毒」が具体的になんであるかを指摘していないのは彼の万病一毒説の大欠陥ですが仕方のないことです。彼は、急性の熱性疾患を論じた「傷寒論」と、急性の熱性疾患ではない熱の出ない慢性の内蔵病、精神神経病、婦人病を論じた「金匱要略」を勉強する中で共通する病気の原因を嗅ぎ取りそれを「一毒」と考えたと推察できます。ちょうど彼が活躍した時代から200年以上たった医学の進んだ時代でも松本医学の「万病ヘルペス説」ですべての難病を完治させる医学を医者の誰一人理解できないのと酷似していると思いません?????ただ一つだけ彼の時代のなかった科学が新しく作った化学物質だけは彼の時代には存在しなかったのでアレルギー疾患だけは「一毒」には含まれません。

吉益東洞(よします とうどう 1702-1773)が頻用した甘草(かんぞう)はいまも昔も用いられている70%の漢方薬に含まれています。 主成分のグリチルリチンは、抗炎症・鎮痛・去痰・鎮咳・抗アレルギー作用があるので市販の風邪薬や胃腸薬、肝臓疾患の治療にも利用されています。 砂糖の50倍も甘味があるのに低カロリーのため、お菓子や調味料として、ダイエット食品にも利用されます。グリチルリチンとはグリチルリチン酸等を含有する医薬品の長期大量使用により、偽アルドステロン症が発現した症例が報告されている。偽アルドステロン症とは偽性アルドステロン症とも表記されます。高血圧や低K血症など、原発性アルドステロン症と同様の臨床所見を呈するにもかかわらず、アルドステロン高値を示さない病態です。漢方薬の一成分である甘草に含まれるグリチルリチン酸の作用により、腎局所でのコルチゾール不活性化が阻害され、そこで過剰となったコルチゾールが腎局所でミネラルコルチコイド作用を呈する病態を示します。血中レニン、アルドステロンは、いずれも低値を示します。腎局所で、活性型のコルチゾール(F)が上昇し、不活性型のコルチゾン(E)が低下するため、尿中E/F比の低下が確認されます。局所でのコルチゾールの上昇であるため、通常、血中コルチゾールやACTHは正常範囲を示します。

吉益東洞(よします とうどう 1702-1773)も用いた甘草の作用について局所でのコルチゾールの上昇であるため、通常、血中コルチゾールやACTHは正常範囲を示しますが、局所でのコルチゾールの上昇があるために、次のような弱いステロイド作用がみられます。

①肝機能を高める効果。肝臓には、もともと解毒作用があります。この働きは、薬物などの異物をすばやく排泄するために肝臓でグルコースから生成されたグルクロン酸という物質を異物に結合させ、水に溶けやすくすることにより尿中に排泄しやすくすることによるものです。主成分のグリチルリチンが肝臓でグルクロン酸に代謝されるため、グルコースからグルクロン酸を作る手間が省けます。このため、甘草は肝臓の解毒作用を強化します。

②アレルギーを抑制する効果。甘草のグリチルリチンは、抗アレルギー作用のあるコルチゾンに似た成分です。強い抗ヒスタミン・抗アレルギー作用があるので、炎症を抑え、かゆみなどをとり除きます。接触性皮膚炎、じんま疹、薬物疹、花粉症などの症状に有効です。

③ストレスをやわらげる効果。甘草にはストレスに対抗する副腎皮質ホルモンを長く体内に留める働きと全般的な抵抗力を高める働きがあります。このため、甘草を摂取することはストレスからくる様々な症状に一時的に効果的がみられます。

④免疫力を高める効果。甘草は、古くから腫瘍を抑制する漢方として利用されてきました。

甘草は局所的でかつ弱いステロイド作用があるのにも関わらず免疫増強作用があります。甘草に含まれているグリチルリチンがマクロファージのIL-12(インターロイキン-12)を増加させる作用は、甘草の抗腫瘍効果と関連しています。IL-12(インターロイキン-12)は、抗腫瘍効果に関与するほとんど全ての免疫系を活性化することができるサイトカインです。

活性化ナイーブT細胞が辿る分化過程は、活性化初期に存在していた二次リンパ組織の微小環境によって決定される。Th1細胞の分化を促進するのはIL-12とIFN-γであるが、IL-12は樹状細胞とマクロファージから、IFN-γは主にナチュラルキラー(NK)細胞などから産生される。これらのサイトカインがCD4+ T細胞上の受容体に結合すると、STAT1およびSTAT4シグナル伝達経路が活性化し、T-betと呼ばれる転写因子の発現が誘導される。T-betはIFN-γの遺伝子発現をオンにする。これにより細胞はTh1細胞へと運命づけられ、大量のIFN-γを発現するようになる。

一方でIL-4は、STAT6シグナル経路を活性化し、転写因子GATA-3の発現が誘導される。GATA3はTh2細胞に特徴的なIL-4, IL- 5, IL- 13などの遺伝子発現を誘導する。このようにTh2への細胞運命が決定され、Th2細胞がIL-4を分泌し始めると、さらに活性化CD4+ T細胞がTh2細胞に分化するのに適した環境ができる。Th2細胞への分化を開始させるIL-4産生細胞はまだ十分には解明されていないが、その有力な候補として好塩基球などが考えられている。Th1細胞とTh2細胞は、その環境に応じて、お互いの機能を制御し平衡関係を保っており、この平衡関係はTh1/Th2バランスといわれ、このバランスがどちらかに傾くことにより、炎症やアレルギーなどそれぞれに特有の疾患が生じる。

⑤ホルモンバランスを整える効果。甘草には強い女性ホルモン様活性を示すエストロゲン様物質も含まれています。このため、摂取することによりホルモンのバランスを整える効果があります。

今一度、汪昴(おうこう)(1615-?)の著した『本草備要(ほんぞうびよう)』をひも解き、甘草について、清代の漢方名医である汪昴(おうこう)は如何に甘草を理解していたかを見てみましょう。『本草備要(ほんぞうびよう)』は「本草綱目」と、「紙農本草経疏」の2書を基にして、470種余の薬物について個々の薬物の性質の要点を述べ、411種について、本草綱目の図を改定した付図をつけた書物です。甘草については以下のように書かれています。中国の古典医書を理解する上で、薬性薬味の本質を知るのに便利なものとして評価されている。甘草は漢方薬の多くの処方薬の中に含有されていて非常に大切な役目を担っています。

1)万能薬の働き。草がどのようなものかというと、「補うあり、瀉あり、表をよくし、裏(りと読み内蔵のこと)をよくし、昇るをよくし、降りるをよくする」と『本草備要』のなかに書かれています。簡単に言えば、体の中で補うべきものは補い、体の中から追い出すものは追い出し、体の上方に行くべきものは登らせ、体の下方に下げるべきものは下げると言っているのです。つまり、今で言う「万能薬」の働きをしていと考えていました。

2)生で用いれば気が平らかになり(気がおだやかになり)、脾胃の不足(胃腸の不調)を補い、心火を瀉す(胸部のうつ熱をさます)とされています。

3)炙った甘草を用いると気が温まり、三焦(さんしょうと読み下腹部のこと)の元気を補い、表寒(体表面の寒け)を取り去るとされています。

4)元気を補う和剤(病邪を緩和させる方剤)に入れればすぐに補益(元気を補う)とされています。

5)汗を発散させる汗剤(発汗させる方剤)に入れればすぐに体表面の熱や汗を発散させるとされています。

6)熱を取り去る涼剤(体を冷ます方剤)に入れればすぐに邪熱を取り去るとされています。

7)強い薬を緩和でき、峻剤(しゅんざいとは、わずかの量で作用を表す強い薬)に入れれば、その鋭い効果を緩和して気を正しくするとされています。

8)血液の潤い不足を正常にします。潤剤(じゅんざいとはからだの水分を補う方剤)に入れれば陰血(血液の潤い不足)を正常に戻す作用があるとされています。

9)調整役も甘草はします。よく諸薬を共和してそれぞれの生薬が喧嘩をせずうまくその役目を果たすように調整役を演じています。経絡(鍼)の十二経に通じており、百薬の毒を解毒するさまは、国家の名家老のようだと伝えられています。

このように、甘草一味を調べてみても、その効果は変幻自在で、各々の生薬と組み合わさって、その長所を引き出し、うまくチームプレイに甘草はすることもできるのです。

吉益東洞宅蹟、京都市中京区

吉益 東洞(よします とうどう、元禄15年2月5日(1702年3月3日)- 安永2年9月25日(1773年11月9日))は、安芸国山口町(現在の広島市中区橋本町付近)出身の漢方医で、古方派を代表する医であり、日本近代医学中興の祖である。名は為則、通称は周助。はじめ東庵と号し、のち東洞。

『傷寒論』を重視するが、その中の陰陽五行説さえも後世の竄入とみなし、観念論として排した。30歳の頃「万病は唯一毒、衆薬は皆毒物なり。毒を似て毒を攻む。毒去って体佳なり」と万病一毒説を唱え、すべての病気がひとつの毒に由来するとし、当時の医学界を驚愕させた。この毒を制するため、強い作用をもつ峻剤を用いる攻撃的な治療を行った。

後の呉秀三や富士川游はこの考え方を近代的で西洋医学に通じるものと高く評価した。呉 秀三(くれ しゅうぞう1865年~1932年)は、日本の精神科医。 東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)。 師事した榊俶(さかき・はじめ)の早世により役職を引き継ぎ、日本における近代的な精神病学を創立した。富士川游は、日本の医学者・医学史家で日本医史学という前人未踏の分野に挑み、疫病史とともに、日本医学史を体系化した博士の厖大な論著の中から、医史学関係の著作・伝記・考証類を全10巻に収めた。

吉益東洞の著書には当時のベストセラーとなった『類聚方』、『薬徴』、『薬断』などがあり、『東洞門人録』によると門弟も546名を数え、後世の漢方医学に与えた影響は絶大である。息子の吉益南涯も漢方医として著名で華岡青洲は吉益南涯の弟子。

吉益 東洞の「万病一毒説」とは具体的には一体何でしょうか?東洞によれば,生体に何らかの理由で後天的に生じた毒が疾病の原因であり,毒の種類はひとつしかない。一種類しかない毒のためにどうして万病を生ずるかといえば,それは毒の存在する部位が異なるためであるという。これは中国医学ではきわめて例外的な個体病理論的発想であり,同じ古方派の艮山の提唱した一気留滞説とは根本的に異なる。

当時の医療思想であった中国の陰陽五行説に強い矛盾を感じ中国の陰陽五行説は観念論であり、陰陽五行説は病気を治せる医学ではないと考え陰陽五行説に基づく医学を排し,病気の内的原因をつきとめようとして実験医学への道を開拓した。

1738年に37歳の時、一家をあげて上京して京都の万里街春日小路南に居をかまえ,古医方を唱え,同時に曾祖父の姓である吉益氏に復した。京都の現存する東洞院通り近くに転居し、医者として開業しました。大いに自説である「万病一毒説」を唱えたが、時流にあわず窮乏した。一時は紙人形をつくって売り、生活の糧(かて)とした。しかしなお、自説を曲げず、世に認められなかった数年、困窮生活が続きましたが、44歳で偶然のことからたまたま山脇東洋と会ってその才を認められ,山脇東洋の推挙で世に出てその名を知られるようになった。当時の名医・山脇東洋に認められたことが機縁となってその推挙でにわかに天下に名を知られるようになり、47歳のときに東洞院町に移転した。東洞の号はこのときに始まる。

彼はいっさいの伝統的理論を退け、「万病一毒説」を唱えた。これは病気の本体として毒を考え、毒はなんらかの原因で身体の中に生じるがただ一種であり、それを除くには強い漢方薬を用いなければならないという「万病一毒論」を説き医学の世界に新しい風を吹き込みました。著書には当時のベストセラーとなった『類聚方』、『薬徴』、『薬断』、門人たちが書いた『医断』などがあり、門弟も546名を数え、後世の漢方医学に与えた影響は絶大である。医名は全国にひびいた。門人は中西深斎・前野良沢・和田東郭ら千数百人とも言われる。息子の吉益南涯も漢方医として著名で華岡青洲は吉益南涯の弟子でした。

多くの著書があるが,特に重要なのは『医断』『薬徴』『類聚方』であろう。門人の集録した『医断』は医論集であり,『薬徴』は本草とは違った立場からみた生薬の薬能を論じたものであり,『類聚方』は『傷寒論』の三陰三陽などの文脈を無視し,処方別に再構成したものである。陰陽五行説関連の条文は「仲景の口吻ではない」としてこれを全面的に削除している。「口吻」とは話す人の考えや思いがうかがえるような話し方の調子です。「吻」とは、動物の体において、口あるいはその周辺が前方へ突出している部分を指す用語です。しかし腹診を重視したのは東洞が最初ではなく,曲直瀬道三・,曲直瀬玄朔の著述にもみられ,『医断』の「腹は生あるの本。故に百病は此に根さす」の語もすでに玄朔の『百腹図説』にみえる。「腹は生あるの本。」の意味は「腹は生命の根本である。」といういみです。1773年に71歳で世を去った吉益 東洞は京都市の東福寺荘厳院に葬られています。

華岡青洲(はなおかせいしゅう1760-1835)は、江戸時代後期の外科医。1,785年、京都での吉益南涯の弟子としての医術修行を終え、故郷である紀伊の国に戻ってきた。青洲は漢方の一種である古方を学ぶ一方、オランダ流外科を修めるなど、最先端の医術を身に付けた。しかし、それは医術の限界を痛感することにもなった。たとえば乳がんは、切れば患者の命が危ういとされ、当時は外科治療の対象ではなかった。何故ならば、乳がん切除のような大手術は、全身麻酔をしなければ患者は耐えられない。青洲は麻酔の研究を始めた。先人の用いた麻酔薬の処方を改良し、延べ十数人のボランティアの協力を得て有効性と安全性を確かめた。母親と妻が投与試験に参加した。

そして、ついに1,804年、青洲は60歳の患者に対する乳がんの手術に挑んだ。患者に脚気と喘息があったため、40日以上もかけてそれらの治療を行うなど、青洲は慎重に手術前の準備を進めた。チョウセンアサガオを主成分とした「麻沸散(まふつさん)」による麻酔はよく効き、乳房から癌だけを摘出する手術は見事に成功した。「麻沸散(まふつさん)」と「通仙散(つうせんさん)」の違いは?麻沸散(まふつさん)の別名が通仙散(つうせんさん)です。

「麻沸散(別名:通仙散)」という処方名は、中国の三国時代、全身麻酔下で手術を行ったとされる名医、華佗(かだ)が用いた幻の麻酔薬である麻沸散にちなんだものである。 華佗は麻沸散を用いて開腹手術をしたと伝えられているが、その実態はよく分からない。

「麻沸散(まふつさん)」による麻酔で乳房から癌だけを摘出する手術は見事に成功した後、青洲のもとには麻酔や手術の方法を学ぶために、多くの若い医師たちが集まってきた。青洲は意欲ある医師を見定め、不断の努力を惜しまぬ「医の心」とともに麻酔法を伝授した。それは、日本の外科手術の発展につながった。欧米で初めて全身麻酔が行われたのは、青洲の手術の成功から約40年を経た1,804年ころでありました。

麻酔の完成が医療の進歩に不可欠だと考えた華岡青洲は修行中にヨーロッパでの乳がん手術を知る。世界で初めて全身麻酔による手術を成功させたのは、なんと日本人医師の華岡青洲だった。

なぜ青洲は麻酔薬を作ることを思い立ったのだろう。青洲は若いころ、京都の吉益南涯の元で医学修行をしていたとき、東洋医学の古方派の医師・永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)の書物に「欧州では乳がんを手術で治療するが、日本ではまだ行われておらず、後続の医師に期待する」と書かれているのを知った。乳がんを根治するほど大きく切るのは、患者が受ける耐えがたい痛みを解決しなければ不可能だ。そこで麻酔法の完成こそ、がんの医療を進歩させる最重要の課題と考えたのだ。

とは江戸時代中期の医師である。山脇東洋の門下であり、古方派の医師であるが、古方派に欠けるところは西洋医学などで補うことを主張した。惜しくも35歳で没した。山口県下関市に生まれた。13歳で医師である永富友庵の養子となった。14歳で江戸に出て医学の修業を始めるが、医学にあきたらず山県周南のもとで儒学を学んだ。17歳で帰郷して儒学を講じてすごすが、京都の古方派の山脇東洋や香川修庵の存在を知り、京都に赴き山脇東洋の門人となった。以後、医学に熱意をもって取り組み、その才能は広く知られるようになった。諸侯から多くの招聘の声がかかるが、山脇東洋は任官を勧めなかった。21歳の時、東洋に命じられて越前の奥村良筑のもとに赴き、「吐方」(嘔吐させて治療する方法)を学んだ。29歳の時、病いを得て生きることが嫌になって、家を離れ諸国を漫遊した。長崎ではオランダ医学を吉雄耕牛に学んだ。この旅行の見聞をまとめて『漫遊雑記』として著された。『漫遊雑記』を華岡青洲が読み、乳がん手術を行う契機になったとされる。30歳のとき大阪で開業し、多くの門人を育てるが35歳で病没した。著書に『漫遊雑記』『吐方考』『嚢語』などがある。永富 独嘯庵(ながとみ どくしょうあん、1732年~1766年)の言葉に、「病を診すること年ごとに多きに技為すこと年ごとに拙し。益々知る、理を究ることは易く、事に応ずることは難きことを。」がある。永富 独嘯庵と同じように15歳から右目が見えなくなりだし右脳のヘルペス脳炎を発症しだしたので永富 独嘯庵の気持ちが非常によくわかります。病気を苦にして3回自殺未遂を試みたのですが死ねずに79歳の老いた体と心に鞭打って松本医学が治せない病気はないと粋がって今なお難病のすべてを治し続けています。癌をも含めてすべての難病はヘルペスであるから治すことができるのです。

華岡青洲とは何をした人ですか?華岡青洲(はなおかせいしゅう, 1760-1835)ヨーロッパでも未完成だった乳がん手術を完成させた。当時、ヨーロッパで乳がんの手術が試みられていたのは事実だが、治療成績はかんばしくなかった。19世紀後半を代表するドイツの外科医・ビルロートでさえ、手術後の再発率は80%を超え、3年生存率は4~7%程度だった。ビルロートはビルロートは、ドイツ出身のオーストリアの外科医。胃癌切除手術に初めて成功した。作曲家ヨハネス・ブラームスの親友でもあった。 順天堂の3代目の堂主となった佐藤進は、明治2年から7年まで、ウィーン大学でビルロートに師事し、アジア人で初めて、ドイツの医学博士号を取得した。幽門側胃切除 食道に近い胃の3分の1から5分の1を残す手術です。 再建術としてはビルロート1法と2法があり、残った胃と十二指腸をつなぐ「ビルロートⅠ法」と残った胃と小腸をつなぐ「ビルロートⅡ法」や「ルー・ワイ法」があります。 残す胃が4分の1以下となると胃内容物の食道への逆流を抑える対応を考える必要が出てきます。

乳がんの手術で有名なハルステッドは全身麻酔法や、無菌的手術法が開発された後、19世紀末に乳がん一括切除術を考案し長期の渡って行われたアメリカのハルステッド法は、再発率を6%にまで抑え、今日の乳がん根治術に至る術式を確立した。

華岡青洲(はなおか・せいしゅう)はなにを開発したの?

「通仙散(つうせんさん)」という麻酔薬を世界で初めて開発しました。麻酔薬(ますいやく)とは、患者が「痛(いた)い」と感じる感覚を、一時的に取り除くことができるくすりです。麻酔薬(ますいやく)がなかったころは、患者は痛(いた)みを必死に我慢(がまん)しながら手術を受けるしかありませんでした。

華岡青洲(せいしゅう)は、25才のころから外科医として診察(しんさつ)・治療(ちりょう) をおこないながら、麻酔薬(ますいやく)の研究に取り組みはじめました。長年の研究のすえ、青洲(せいしゅう)は「通仙散(つうせんさん) 」という麻酔薬の開発に成功。通仙散は「マンダラゲ」という植物を始め、数種類の植物を調合してつくられました。「マンダラゲ」は、チョウセンアサガオ(朝鮮朝顔と)とも言われるナス科の植物。マンダラゲ(曼陀羅華)、キチガイナスビ(気違い茄子)、トランペットフラワー、ロコ草などの異名もある。実は人間の体をしびれさせる毒を持っています。その毒を利用して、痛(いた)みの感覚をなくして、手術をおこなうことができたのです。1804年に通仙散(つうせんさん)を使って世界初の全身麻酔(ぜんしんますい)による乳癌の手術を成功させました。青洲の全身麻酔による手術は、アメリカのエーテルによる全身麻酔手術よりも40年以上前におこなわれていたのですから、青洲(せいしゅう)の成功は前例のないすばらしいものです。麻沸散(通仙散)の成分は?

麻沸散の処方 は『麻薬考』の「紀州花岡氏方(=処方)」によれば ①曼陀羅華(マンダラゲ)、②草烏頭(ソウウズ)、③白芷 (ビャクシ)、④当帰(トウキ)、⑤川芎(センキュウ)、 ⑥天南星(テンナンショウ)の6味でした。 これらを水で煎じて服用しました。麻沸散の処方の中で強力な麻酔効果を発揮できるのは①曼陀羅華(マンダラゲ)です。②草烏頭(ソウウズ)は毒性があるので有名ですが痛みをマヒさせるという効能は一切書いていません。

曼陀羅華(マンダラゲ)だけが圧倒的に神経をマヒさせる効能があるのです。すでに説明したように曼陀羅華(マンダラゲ)は全身麻酔薬(通仙散)の主成分となった生薬で、曼陀羅華とはナス科のチョウセンアサガオのことで、草丈は1m程で夏にアサガオに似た白い花を咲かせる植物です。全身麻酔薬の開発においては動物実験の他、最終的に投与量などを決めるために人体実験が必要でした。このことで苦悩する華岡青洲を見かねた母と妻が実験台になることを申し出ました。二人の献身的な人体実験のおかげで全身麻酔薬を完成させることが出来ました。その後、華岡青洲は約150例にもおよぶ乳癌摘出手術を行なったそうです。 華岡青洲は医療に貢献した人として、曼陀羅華と共に切手にも描かれています。

草烏頭(ソウウズ)とは何でしょうか?烏頭とは何でしょうか?烏頭の主な産地は中国です。中国産の烏頭には川烏頭と草烏頭があります。川烏頭は栽培したトリカブトの塊根を乾燥したもので主に四川省、湖北省、湖南省、雲南省、陝西省で栽培されています。そのまま乾燥して烏頭として使用されるか附子の加工原料として使用されます。又、野性のトリカブトを採取し、塊根を乾燥して草烏頭として流通しています。主な産地は四川省、雲南省、貴州省、山西省、河北省、陝西省、遼寧省、内蒙古自治区などです。草烏頭は中国国内で流通しているものです。日本では群馬県、北海道などでオクトリカブト、カラトリカブトが栽培され様々な減毒加工をして、製剤原料、生薬附子として流通しています。附子の成分にはaconitine,(アコニチン)、mesaconitine,(メサコニチン)、hypaconitine,(ヒパコニチン)、jesaconitine,(ジェサコニチン)等の強毒性のアルカロイドとatisineに代表されます。

『麻薬考』とは何でしようか?中川修亭は1796年に麻酔薬14方の処方を収めた写本「麻薬考」を編集した。これに1810年以降6方が追加されて改訂された。このため武田本、宗田本を含むさまざまな写本が誕生した。1826年岩田三谷は「秘薬考」を出版したが、麻酔薬24方と解醒剤1方が収められている。これは武田本から14方、宗田本から6方を転載し、さらに岩田が5方を加えたものである。つまり「秘薬考」は「麻薬考」の剽窃本なのです。

華岡青洲(はなおか・せいしゅう)はなぜ乳(にゅう)がんの手術を最初に選んだのか?乳がんとは、主に女性がかかる病気で、乳房(ちぶさ)の中に腫瘍(しゅよう)とよばれるはれ物ができる病気です。昔は1度かかると治らない病気と言われ、青洲も妹を乳癌で亡くしていました。そのため青洲(せいしゅう)は、「乳(にゅう)がんの手術を成功させたい」という思いが強かったのです。

華岡青洲(はなおか・せいしゅう)はどんな病気の治療(ちりょう)も手術も取り組む天才医師でした。今では、かぜは内科、耳の病気は耳鼻科というように、病院の診療科が細かく分かれていますが、昔はそのような区別がありませんでした。そのため青洲(せいしゅう)は、あらゆる病気やケガを診察し、治療や手術をおこなっていたのです。私も手術とケガ以外のあらゆる病気を診察し、治療できます。青洲は、たくさんの治療道具や手術道具を開発しました。また、麻酔薬の通仙散(麻沸散)を使用してさまざまな手術をおこない、その手術例は100種類を超えていました。青洲は、たくさんの人たちを病気やケガの苦しみから救った天才医師だったのです。青洲(せいしゅう)は、弟子以外にはなにも教えないケチだったといわれていますが本当ですか?青洲は、通仙散の作り方や麻酔の方法を、弟子以外には絶対に教えませんでした。でもそれは、青洲がケチだったからというわけではありません。麻酔を使うには高度な技術と知識が必要です。そのため青洲は、患者に危険がおよばないように、きちんと麻酔について学んだ自分の弟子たちにしか教えなかっただけのことです。

乳がんの外科手術は長い歴史を持ち、その治療法は時代とともに変遷し、乳がんの手術は縮小傾向になってきた歴史を語りましょう。すでに述べたHalsted(ハルステッド)の乳がんの手術理論と初期の手術法とは何でしょうか?1890年ごろ、アメリカの外科医、ハルステッドが、乳がんの根治術として乳房・大小胸筋(乳房の下の筋肉)・腋窩リンパ節(わきのリンパ節)をすべて切除する方法を報告しました。かつては、乳がんはまずリンパ節に転移し、それから全身に広がるという理論に基づき、手術でより大きく病巣を切除することで乳がんが治るのではないか?と考えられていたのです。

 この手術は、100年近く世界的に標準術式として認識されてきましたが、1950年ごろから手術の縮小化が試みられ、筋肉(胸筋)を温存する胸筋温存乳房切除術が始まりました。これにより、皮膚の下にあばら骨が浮いて見える状況が改善され見えなくなりました。現在行われている「乳房全切除術」は、 大胸筋と小胸筋を両方温存するAuchincloss法です。

Auchincloss法の読み方はオーチンクロス法でオーキンクロス法、オッキンクロス法ともいいます。オーチンクロス法では胸筋と小胸筋を残し、乳房とリンパ節を切除します。 ペイティ法は、乳房と小胸筋、リンパ節を一緒に切除しますが、大胸筋は残します。 どちらを選択するかは、病状の広がり方にもよりますので一概にはいえません。

 さらに、1970年には乳腺部分切除 (乳房温存療法) がはじまり、放射線治療と合わせて行う”集学的治療”として普及していきます。 日本乳癌学会の調査でも2003年に乳房温存療法が胸筋温存乳房切除術を逆転し、最も多い手術方法となっています。また、薬物治療の進歩により、手術の前に化学療法を行い癌を小さくしてから、乳房温存手術を行うようにもなりました。

 腋窩郭清からセンチネルリンパ節生検へと乳がんの手術は縮小しています。さらにわきのリンパ節の切除の範囲も縮小してきています。1990年代から、センチネルリンパ節生検が始まりました。脇の下のリンパ節を全て切除することを腋窩郭清といい、術後の後遺症として、患肢のむくみ、痛み、しびれ、運動障害が問題になります。センチネルリンパ節生検は、がん細胞が最初に転移するセンチネルリンパ節を同定し切除します。手術中に転移の有無を調べ 、転移がない場合は腋窩郭清を省略できます。小さな転移の場合は、放射線治療・薬物治療を組み合わせて腋窩郭清を省略をする場合もあります。

センチネルリンパ節生検とはセンチネルリンパ節とは,乳房内から乳がん細胞が最初にたどりつくリンパ節と定義され,このセンチネルリンパ節を発見,摘出し,さらにがん細胞があるかどうか(転移の有無)を顕微鏡で調べる一連の検査をセンチネルリンパ節生検と呼びます 図1 。

腋窩リンパ節郭清には転移の有無を診断して,そして転移があればそれを取り除く(治療)という2つの目的があります。センチネルリンパ節生検が開発される前は,ほぼすべての患者さんに腋窩リンパ節郭清を行っていました。つまり,腋窩リンパ節郭清をして調べ,リンパ節に転移がなかったという場合には,患者さんにとって治療としてのリンパ節郭清は必要なかったことになります。

腋窩リンパ節郭清によって手術後のわきへのリンパ液の貯留(ちょりゅう),わきの感覚の異常,腕のむくみといった合併症や後遺症が引き起こされるなど,リンパ節郭清は,患者にとって術後の悩み事につながる可能性があります。そこで,リンパ節を郭清することなく,リンパ節転移の有無を調べる方法(センチネルリンパ節生検)が開発され,世界中で実施されています。

センチネルリンパ節にがん細胞がなければ,それ以外のリンパ節にも転移がないと考えられますので,腋窩リンパ節郭清を省略できます。センチネルリンパ節に転移がある場合は,原則として腋窩リンパ節郭清を行いますが,センチネルリンパ節の転移が微小(2mm以下)であった場合は,その他のリンパ節に転移が存在する可能性は低いため,腋窩リンパ節郭清を省略することも可能です。

さらに,最近の研究では,センチネルリンパ節に2mmを超える転移があっても,一定の条件を満たす場合には(条件:①センチネルリンパ節への転移が2個以下,②乳房のしこりの大きさが5cm未満,③乳房温存手術を行い,術後に腋窩を含む放射線照射を施行,④術後薬物療法を施行),腋窩リンパ節郭清を省略しても生存率は低下せず,遠隔再発率も上昇しないという報告が複数なされました。腋窩リンパ節郭清を行った場合,前述の通り,腕のむくみなどの後遺症を残す可能性があります。腋窩リンパ節郭清を省略するかどうかは,これらのデータをもとに担当医とよく相談して決めてください。

図1  センチネルリンパ節

センチネルリンパ節生検の方法は通常,センチネルリンパ節生検は乳房の手術の際に行います。腫瘍の周りや乳輪に微量の放射性同位元素(ほうしゃせいどういげんそ)を持っているわずかな放射線を発する物質であるアイソトープや、あるいは色素を注射すると,その放射性同位元素(または色素)はリンパ管を通じてセンチネルリンパ節に集まります。放射線が検出されたり,色に染まったりしたリンパ節(センチネルリンパ節)を摘出して,転移の有無を顕微鏡で調べます。最近では,蛍光色素と赤外線カメラを用いた蛍光法も普及してきました。

なお,センチネルリンパ節生検は,確立された標準的な方法ですが,具体的な手技については,各施設でかなりばらつきがあります。例えば,センチネルリンパ節をみつけるのに使う薬剤や,それらを乳房のどこに注射するかも施設によってさまざまです。また,熟練した乳腺外科医を中心としたチームが行っても,センチネルリンパ節がみつからない場合もあります。

センチネルリンパ節生検の信頼性は確実にあるのでしょうか?センチネルリンパ節生検は,大規模な臨床試験の結果,十分信頼できる方法であることが確認されています。つまり,センチネルリンパ節の転移の有無で腋窩リンパ節郭清をするかどうかを決めた患者さんと,センチネルリンパ節の転移の有無にかかわらず腋窩リンパ節郭清を受けた患者さんでは生存率が変わらないということが報告されています。

センチネルリンパ節生検の合併症は何がるのでしょうか?センチネルリンパ節生検に用いる色素で,まれにアレルギー症状が出ることがあります。また,皮膚に色素の跡が残りますが数週間で消えます。一方,放射性同位元素を使用する場合,その量は非常に微量なため,人体に悪影響はほとんどありません。

センチネルリンパ節生検でもリンパ浮腫(術後の腕のむくみ),腕やわきのしびれや痛みなどが起きる可能性はありますが,腋窩リンパ節郭清によるものと比べて明らかに少ないことも報告されています。

術前化学療法後のセンチネルリンパ節生検の必要性の有無については術前化学療法を行った患者さんに対するセンチネルリンパ節生検は,術前化学療法前の画像診断などにより腋窩リンパ節転移がないと判断された患者さんでは,術前化学療法の前あるいは後のいずれでも実施可能です。一方,術前化学療法前に腋窩リンパ節転移があった患者さんでは,たとえ術前化学療法後の画像診断で腋窩リンパ節転移が消失したと考えられても,センチネルリンパ節生検の信頼性は不十分なので,担当医と十分に話し合って,センチネルリンパ節生検をするかどうか決めることになります。

非浸潤がんの場合はリンパ節転移は起こらないのか?がん細胞が乳管・小葉の中にとどまっている非浸潤(ひしんじゅん)がんの場合には,理論的にはリンパ節転移は起こらないため,腋窩リンパ節郭清はもちろんのことセンチネルリンパ節生検すら行う必要はないと考えられます。ただし,非浸潤がんかどうかを手術前に正確に診断することは困難です。手術前の針生検で非浸潤がんと診断されても,しこりが触れる場合や範囲が広い場合などには,そこに小さな浸潤(乳管の外にがんが出ている部分)が含まれている可能性があります。

したがって,浸潤がんの可能性がある場合には,センチネルリンパ節生検を行ったほうがよいと考えられます。一方,浸潤がんの可能性が少ない場合には,まず乳房部分切除術を行い,病理検査の結果,浸潤がんが認められた場合に,センチネルリンパ節生検を行うかどうかを担当医と相談のうえ決めます。ただし,乳房全切除術が行われる場合,後日センチネルリンパ節生検を行うことが技術的に難しいため,乳房全切除術と同時にセンチネルリンパ節生検を行うべきであると考えられます。

 さらに近頃は乳がんの手術は個別化が進んでいます。乳がんの一部は、比較的早い段階で全身へ拡がっている可能性のある「全身病」であると考えられています。乳がんの場合、初期であっても、目に見えない小さながん細胞が全身に拡がっている可能性があります。今では、 小さながん細胞が全身へ転移している可能性があると思われる場合には、その程度を予測しながら、局所的な治療(手術、放射線照射)と全身的な効果が望める薬物治療(化学療法やホルモン療法)を組み合わせ、治療が行われるようになっています。現時点では、薬物治療が進んで手術の役割がなくなったわけではありません。手術を行うことで、病巣を取り除き、乳がんの性格や薬物治療の効果を正しく判定が出来ます。それぞれの患者さんに適した手術を行い、病気を治すことと同時に、できるだけ心や体への負担を少なくすることが重要と考えられています。

 手術の省略はありますか?非浸潤性乳管癌 (ductal carcinoma in situ, DCIS)は、乳房の乳管に限局した乳がんです。乳がん検診の普及により、DCISの診断が急増し、現在では新たに診断される乳がんの約25%を占めています。 現時点では、非浸潤性乳管癌に対しては基本的に切除が勧められますが、 一部のDCISに対して、手術をしないで、厳重な経過観察や薬物治療を行う臨床試験が進められています。

 化学療法の進歩により、特にトリプルネガティブまたはHER2陽性の60%~80%では、薬物治療によって、もともと乳房にあったがんが縮小するだけではなく、がんの病巣が消失するようになりました。このように薬物治療によく反応した乳がんでは、手術を必要としない場合もあるのでは、と考えられ、手術を省略する臨床試験が検討されています。

 

手術の後に乳房を再建するとか、更に乳がんを予防する必要がありますか?乳房全切除術は、乳がんの広がりが大きい場合に乳房を再建するかどうかを選択されますが、それ以外にも、乳房の再建手術を前提にして、皮膚や乳頭を温存する乳房全切除術をおこなうことがあります。遺伝性乳がんの場合、新たながんを防ぐために、発症していない乳房を摘出する手術(予防切除)として、乳房全切除術が行われることがあります。

乳がんは切らずに治りますか?  残念ながら、今のところ手術は避けては通れません 。癌の再発のリスクを出来るだけ少なく、かつ侵襲の少ない手術方法を提案していくことになります。

 乳がんの治療において、これだけ手術の役割が変化してくると、外科医、という仕事はどうなっていくのでしょう。外科医の先輩と、乳がんの手術は将来なくなるか、という話をすることがあります。私は、「将来的には手術が必要でなくなる」派です。それは、私自身が乳がんになったとしたら手術以外の方法も含めて選択肢を持ちたい、という、希望的観測も含まれています。重要なことは、早期の乳がんでは、適切な治療につなげることで、十分に治癒が可能な病気であるということ。早期発見例では、今後ますます、心と身体に負担の少ない手術方法を選択できる可能性が増えるはずです。

 乳房を切除することに強く抵抗を感じるあまり、患者さんの中には、最初から手術をはじめとした標準的な治療を希望しない方もいらっしゃいます。 病気の治療のためとはいえ、手術により乳房の喪失・形の変化は、心や身体へ影響を与えます。しかし、医療は日々進歩していますので、今は適応が限られている治療が標準的になったり、全く新しい治療法が出てくるかもしれません。いろいろな可能性があるんだということを信じて、一緒に乳がんに向き合っていきませんか?しかし癌患者さんは外科医と一緒に乳がんに向き合っても絶対に完治するまではいつまで絶対的な安心はあり得ません。あらゆるがんはロイアルレイモンドライフ博士が証明したようにヘルペスがすべての癌の原因である真実を徹底的に解決しない限りあらゆる癌治療は結局は対処療法に過ぎないのです。癌の原因であるヘルペスを「ロイアルレイモンドライフ博士の光療法」で殺しつくしかつ同時に癌細胞をも殺しつくさない限りそれ以外の治療はすべて無駄な治療なのです。「ロイアルレイモンドライフ博士の光療法」はここを読んでください。

吉益 東洞の「万病一毒説」と私の「万病ヘルペス一毒説」の違いについて詳しく解説しましょう。「東洞の医学」と「松本医学」とは根本的には全く同じ医学であるのです。見かけの違いは彼が生まれた1702年と私が生まれた1945年の243年の間に真実の医学がどれだけ進んだかの違いです。しかも現代医学は進んだ医学を病気を完治させるために利用するために用いるのではなく病気を新たに作って残念なことにお金を儲けるために利用しているだけです。更にこの嘆かわしい「現代の間違った医療」と200年前の吉益 東洞の「万病一毒説の漢方古方派医療」と「病気を治せる万病ヘルペス松本医学」と「一般の漢方医学」の四つの医療の違いを詳しくどのように違うかを「病気を治せる医療」の観点から比較しながら現代医療の大間違いを指摘しましょう。

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