症例報告78例目
完治された病名1)潰瘍性大腸炎
患者:36歳、女性
患者さんが潰瘍性大腸炎だと診断されたのは1993年5月、中学3年生の時でした。診断が下される半年以上前から便と一緒に出血していることに気づいていましたが、痔だろうと軽く考え、そのうち治ると思い放置していました。そのうち白い粘液のようなものが表れるようになり、一向に治りません。ですが、普通の生活を送れていたのでご両親に相談することもありませんでした。当時、中学校のクラブ活動でバレーボールをしており、毎朝早朝練習を行い、放課後もクラブ活動をし、夜は塾にも通っていました。日曜日も毎週練習試合があったりして毎日忙しくしてストレスを溜め込み続け、症状を起こしてしまったのです。
症状は少しずつ悪くなっていました。どんどん出血の量も多くなり、便も形が無くなってしまいました。中学3年生になり3階の教室に移動するのに階段を上がると貧血がかなり進んでいたのか目がチカチカしていました。しかし、今までと同様にクラブ活動は休むことなく続けていました。というのも、患者さんが通っていた中学校は全生徒何かしらのクラブに所属し3年間そのクラブを変わることなく続けなければならないというルールがあったそうです。患者さんにとって、このクラブ活動がかなりのストレスとなっていました。顧問の先生がかなり厳しく、試合で勝つことを重視され、選抜メンバーとそれに選ばれなかったメンバーとの扱いにも差がありました。患者さんはスタメンに選ばれたり選ばれなかったりで、スタメンは諦めてほどほどにやって卒業しようとは考えず、負けず嫌いな性格が患者さん自身を追い込んでしまっていました。
中学3年の5月、お腹以外にも耳の奥が痛くなり、尿にも血が混ざっているように感じて怖くなり母親に事情を話し、クラブを休んで家に帰り病院に受診されました。尿検査や血液検査をしてもらい、検査結果を聞くと、「すぐに入院をして下さい。今すぐ紹介先の病院に向かってください。」と言われました。この時点では何の病気かもわかりませんでしたが、ヘモグロビンの量が5(男女ともに10g/dl以下になるとめまいや息切れなどの症状が現れ、中等度から重症の貧血と診断される)になっていた為すぐに入院をしないといけなかったようです。
母親に入院の用意をしてもらい紹介先の病院へ行かれました。看護婦さんが車椅子で移動させられた後、トイレには行かずベッドの側に置かれた簡易トイレで用を足して下さいと言われ、医師からも「次に貧血で倒れたらそのまま心臓が止まることもあるから輸血をしないといけない」と言われました。ですが、患者さんはそんなこと絶対にありえないと思いました。なぜなら入院の前日までクラブのみんなと一緒にグランドを走ることもできていたからです。貧血で倒れることはあるかもしれませんが、そのまま死ぬなんて絶対にないと理由はないですが確信があり、医師から心臓が止まると聞いても全く不安にも思いませんでした。輸血をすると他の重大な病気にかかることもあると知っていましたので、どんな事を言われても輸血は絶対に拒否しようと心に決めました。患者さんが一度、輸血を断るとそれ以降は勧められることはありませんでしたが、ご両親には執拗に脅しともいえる圧力で、娘さんは輸血をしないと死ぬんです!という勢いで怒られたと後から話してくれました。
大腸の内視鏡検査をすると、大腸全部に炎症があり、潰瘍性大腸炎だと診断されました。治らない病気だと説明を受けるも、患者さんは治らない病気があるということを知らなかったので患者さんは治ると思って医師の説明を聞いていました。
IVHの点滴をして絶食をすることになり、その点滴の中に鉄剤を混ぜることになりました。鉄剤の点滴に加え、飲み薬としてサラゾピリンを毎食後に2錠ずつ、副作用のないお薬だから欠かさず飲むようにと言われました。その後しばらくして、看護師さんから「明日の朝からこの薬を飲んで下さい」と薄ピンクの錠剤を6錠渡されました。
しばらく飲んでいると出血も治まり、便も形になってきました。小さいころからアトピーもあったので、アトピーも出なくなり綺麗な肌になりました。母親とアトピーまで治るってステロイドが入っているお薬なのかな?と話していたそうで、薄ピンクの錠剤がプレドニンでした。どんな副作用があるのか医師から説明を受けたのは服用してからしばらく経ってからのことだったそうです。患者に薬の効能と副作用を説明しない医者もいれば、何も疑問を抱かず医師の指示通りに薬を飲む患者さんも日本には多いですね。
入院から1ヵ月経った頃、点滴の量を少なくしてお粥を食べさせてもらえるようになり、プレドニンの量も少しずつ減っていき、プレドニンの量が3錠になった頃、2ヵ月で退院となりました。
しかし、退院後1ヵ月も経たないうちにまた出血し始めました。退院後も引き続き免疫抑制剤は欠かさず飲んでいたからでしょう。患者さんは最初、なぜ再発したのか理解できず、大変ショックを受けられました。次の診察で、またプレドニンの量が増え一時的に症状は治まりましたが、その後も何度もプレドニンの量が減るたびに再燃し、またプレドニンの量が増えるという繰り返しが2年程続きました。
初めての入院後、退院してからしばらくはその病院へ通院をしていましたが、2週間おきに同じ曜日の同じ時間の授業に出席できないので、家の近くに土日も診察がある病院へ転院させてもらいました。最初の診察は院長先生がやりましたが、京都大学病院の潰瘍性大腸炎専門チームの医師がいるらしく、約10年間、京大の先生にお世話になっていたそうです。
高校生の時、京大の先生に診てもらうようになってから暫くして、サラゾピリンからペンタサという新しいお薬に変えようと提案されました。ずっと飲み続けても体に害がない良いお薬だと説明を受け、朝昼晩の食後に2錠ずつ飲むことになりました。高校3年生のころにはプレドニンは飲まなくても見かけ上、良くなりました。
短大の英文科に進学され、入学直後から来年は就職活動をしなければ、という空気がありました。ストレスを与えないように頑張ろうと注意しながら、運良く第一希望の会社から内定をもらえました。その後、憧れていたイギリスのランカスター大学に通いながら1ヵ月のホームステイに参加されました。初めての海外生活、とても楽しくてもっと長く住んで言語も習得したいという気持ちで帰ってきました。
帰国後再び調子が悪くなりました。いろんなところで書いてきましたが、潰瘍性大腸炎やクローン病に限らず膠原病の根本原因は人間が人工的に作り出した環境汚染化学物質なのです。近代文明は人間にとって異物となる化学物質を大量に作ってきました。その中でも日本は特に環境汚染化学物質が多い国なのです。また当院に通われていた患者の中で当院の治療を受ける前に海外へ行かれて日本に帰ってくると体調が悪くなったという方は少なくありませんでした。
検査の結果、直腸付近のみ炎症がある状態でした。朝昼晩2錠ずつ飲んでいたペンタサを3錠飲んでも改善しなかったため、ステロイドの注腸を行いましたがだんだん悪化していき、二度目の入院となりました。二度目の入院は3ヶ月間でした。またプレドニンを服用し少しずつ量を減らしていくという治療でした。今回は副作用で頬がパンパンに大きく赤くなりました。久しぶりに出会った祖母からは「この子、どこの子や?」と言われるほどに別人になりました。
短大を卒業され初めての社会人生活が始まりました。二度目の退院後からは順調にお薬も減らせていましたが、働きだして暫くしてからまた再燃されました。7月に三度目の入院となりました。今回の入院は今までとは違った形になりました。これまでお世話になっていた京大の先生が、若いころからステロイドを服用していることを心配し、大学病院で白血球除去療法の治験に参加しないかと提案されました。白血球除去療法ならステロイドの副作用で顔が腫れないということもあり、参加することに同意しました。この時、プレドニンを1日20㎎服用していたのですが、その量は継続したままで白血球を除去するのを1週間に1回、合計5回行うことになりました。途中でも辞めたくなったら止められるというものでした。除去した直後1日~3日くらいはトイレの回数も出血の量も減ったのですが、1週間後にはまた元通りを通り越し少し悪化していると感じる状況でした。顔が腫れない治療だということで微かな希望を持って最後まで試しましたが、効き目はありませんでした。
三度目の入院6ヶ月目、免疫抑制剤のイムランを1日1錠、プレドニン、ペンタサと併用して飲むことになり退院されました。今後の治療方針の話し合いの途中で患者さんは気分が悪くなり退室された後、医師とご両親のみでの話し合いの場で「大腸を全部取ったらこんなことにはならないから切除したらよい」と言われていたそうです。ですがそれだけはしないで下さいとご両親がお願いしました。切除なんてしなくて本当に良かったですね。
イムランの効果は早い人で2ヵ月、遅い人で半年くらいかかると説明を受け、効果が現れ始めたのは(炎症反応が下がりだしたのは)10ヶ月後でした。退院してからの10ヵ月間が発病してから一番最悪の時でした。三度目に入院した時よりもかなり悪化しての退院でした。医師からは重症よりも悪い劇症で名の通り最悪でした。トイレの回数も1日に20回以上行く日もあり、外出した時には常にトイレの場所をチェックしました。半年でイムランの効果が現れるはずだからと忍耐し治療を続けていましたが期待を裏切られ、診察の時にどうして効果が現れないのかと聞いても、「イムランは効果が出るのに時間がかかるお薬だけど体に優しくていいお薬なんだ」と。今、結果が出ていなくてもおかしな状況ではないし、この治療方針を変更する必要はないという返答でした。
そんな時、母親が“ノニジュース”というものを見つけてきました。母親の話では末期の癌でも完治させるとか言っていて、あやしいなと思いながらも本当にうるさいので飲み続けました。すると次の診察の時には炎症反応が下がっていて、飲み出して以降、炎症反応は下がる一方でした。お腹の調子も下痢も治まり出血も治まりみるみる良くなりました。飲み出したその月からトイレの回数も1日に1回になりました。
ノニ(noni)とは、太平洋諸島、東南アジア、オーストラリア、インドで見られる小さな常緑樹です。しばしば溶岩流の中で成長します。歴史的に、ノニはポリネシアで何千年もの間、食料源として、そして薬用(通常は皮膚に塗布)として使用されてきました。現在では、サプリメントとしてがんの予防、感染症の予防、高血圧の治療、そのほかさまざまな症状・疾患の改善のために良いとされています。また多量のカリウムを含んでいるため、腎臓病患者の方には有害です。
このノニジュースとの出会い以降、約10年間、ペンタサでさえ飲まなくてもよくなりました。たまに出血をすることもありましたが、その時だけノニジュースをいつもよりたくさん飲むといつも良くなりました。それで通院も年1回だけ、特定疾患受給者証更新の手続きのための検査を受けに行くだけでした。
2022/6/7
2013年2月、ボランティア活動をするため会社を辞めネパールへ行かれました。2014年6月、足の側面に小さなこぶができ触れると痛む。治ってはまた違うところにできるの繰り返しが始まる。足首にも捻挫したかのような痛みがでるが1週間ほどで治まる。
2014年7月、一時帰国後、再燃。ノニジュースも効き目がありませんでした。帰国してホッとしたのと、ネパールの環境に慣れてネパール語も上達し言語のストレスも少なくなってきたと感じ、免疫が上がって症状が出てきたのです。
2014年8月、派遣の仕事を始める。
大腸の内視鏡検査の結果は自覚症状通りでした。以前、診てもらっていた京都大学病院の医師は出世しもういませんでした。代わりに京都大学病院からまた違う医師が来られていました。その医師は、検査の結果を見て「市民病院を紹介するのでそちらに行くのがいいです。ここでは治療できません」と言われました。
市民病院に行ったところで過去に経験した治療の繰り返しになることは目に見えていました。ステロイドや又は新しいお薬を服用した当初はすぐに良くなりますが、またすぐ悪化することでしょう。転院されるのであれば自分で探そうと思い、母親も一緒になってネットで検索されました。そして母親が「潰瘍性大腸炎完治」で検索をし、松本漢方クリニックがヒットしました。患者さんは緩和と再燃を繰り返すうちに“完治”なんてことは思いの中から排除されていました。患者さんは発病当初は完治すると思っていたのに次第にこの病気と一生付き合わないといけないと思い込んでいたそうです。
母親から松本漢方クリニックの話を聞かされた時は本当に治るのか疑ったそうですが、私の論文を読んでいくと本当に治ると確信できました。その日からペンタサの服用をやめてすぐに当院へ受診されました。松本漢方クリニックに行く前に、市民病院には行かずに松本漢方クリニックに行くことをかかりつけの院長にも伝えるため診察に行きました。
2014年8月13日、初診。下痢を抑える漢方と出血を抑える漢方、漢方風呂を処方してもらいました。鍼灸もしてもらい、自宅でのお灸の仕方も教えました。家では母親がしてくれたのでほぼ毎日続けられました。針は通院の時だけ(2週間に1回)松本漢方クリニックで受けてもらいました。
2014年8月14日、頻繁に尿意が起こり、体がだるくなり、手首が痛くなり、お腹も張ってきた。
2014年8月15日、6月に起きたのと同様に足の側面にこぶができ、それが今回はどんどん大きくなって足首から下全体に膨れ上がり靴が履けなくなりました。足首もアキレス腱が切れるのではないかと思うほど痛くなり、続いて膝にも痛みが広がり、そのうち全身の関節が痛むようになりました。頭痛もありました。漢方風呂に入られました。夜になると熱がでるようになりました。38.5度ありました。
2014年8月16日、引き続き足の痛みは増していき、歩くのにも腕で体を支えて足首と膝に体重を乗せないようにしないと痛みが強くて歩くことができないほどでした。熱は39.3度ありました。足が痛くて車も運転できない状態だったので派遣の仕事を断りしました。
2014年8月17日、足首の痛みが最高潮だったそうです。父親の登山用の杖を借りて家の中を移動していました。
2014年8月20日、漢方を変えて、関節の痛みを取る漢方と抗ヘルペス剤を処方しました。関節の痛みを取る漢方は飲むとすぐ2~3時間後には関節の痛みが消えました。しかしこの日から夜の熱が40度を超えるようになり、夜になるとお腹が燃えているように熱くなり激痛が襲ってきました。この激痛は5分ほど痛みが続き、しばらくすると引いてまた襲ってきました。激痛が来た時は水を飲むと我慢できる程度にまで痛みを和らがせることができました。微熱が出た時に飲むように出していた抗生物質が1週間分ほど処方していたのですが、微熱どころか高熱が1週間を過ぎても引きませんでした。あまりにも体力を消耗してしまい患者さんは手記を読めなかったそうですが、母親は同じ経験をした方がいないか必死に手記を読み漁りました。しかし当時、熱は出ても微熱程度でそんなに長引いている方の手記はなかったようです。お腹の激痛は本当に恐怖で、激痛が襲ってきたときにすぐに水が飲めるように、家の中でもペットボトルに水を入れて持ち歩いていたほどでした。水と漢方くらいしか喉を通らず毎日みるみる痩せていきました。
2014年8月26日、母親が前、お世話になっていた病院でIVHの点滴をしてもらいに行った方がいいかもしれないと言い出しました。このまま体重が減るならした方がいいのかと考えられましたが、もう一日考えてから決めることにしました。
2014年8月27日、夜の熱が出なくなり、体がだいぶん楽になりました。これまで熱のせいか食事ができず水分くらいしか喉を通らなかったので、エレンタールを処方していましたが、すごく甘くて飲みにくく漢方も飲まなければならないので水分だけでお腹がいっぱいになっていたそうです。ですが、熱が出なくなるとエレンタールを飲みつつも少しずつ食べられる量が増えてきてお菓子まで食べられるようになりました。しかも12日間もご家族の協力があったにしてもヘルペスウイルスと戦い続け、そしてヘルペスウイルスに打ち勝ったのです!次の診察の時にその報告を受けて患者さんをすごく頑張ったと誉めましたが、不安に思ったら今度からはもっと電話して相談しても良いと改めて患者さんに伝えました。あまりのリバウンドの辛さに患者さんは自分の免疫に殺されると思われたそうですが、免疫は38億年かけて進化し私たちを守っているのですから自分自身を殺すことは絶対にありえません。
2014年9月1日、出血の量が減ってくる。
2014年9月3日、便の回数が1日5~6回に減ってきた。
2014年9月4日、クラススイッチを起こしアトピーが肘の内側と首に少しでてくる。
2014年9月7日、ふと気が付くと視力が回復していたそうです。学生の頃は2.0あった視力が就職してから0.7にまで落ちていましたが、いつもぼやけて見えていたものがはっきりと見えるようになっていました。
2014年9月9日、便が少し形になってきた。今まで熱があって漢方風呂に入れなかったので再開されました。週に2回欠かさず入られました。
2014年9月19日、アトピーが背中・胸・わき腹・お腹にでてきて痒くて眠れなくなりました。
2014年10月18日、松本漢方クリニック診察。カトマンズへ帰ることと母親と友人は1週間の観光のために同じ便のチケットをそれぞれ購入済であることを聞きました。私は行く前にしっかりと治してから行くことを勧めました。患者さんは友人が観光で行くとのことで、とりあえず一緒に行ってすぐに帰国しようと計画を変更する予定でいました。
2014年10月末、アトピーが顔のあごや目の周りにまで出はじめる。
2014年11月1日、松本漢方クリニック診察。すでに潰瘍性大腸炎の方は良くなり、あとはアトピーが出てしまえば終わりでした。なのでネパールは日本みたいに添加物が少なく向こうに行った方がアトピーは良くなるので、転地療法だと思って行ってきたらいい。1年でも行っておいで。と旅行に行かれるまでに患者さんに伝えました。しかし自然後天的免疫寛容を起こさないと帰国した時、またアトピーが出てくることも説明しました。さらにネパールに行く前に今から出発までの1週間毎日漢方風呂に入るように指導しました。それから出発までの8日間のうち6日は漢方風呂に入られたそうです。今まで週に2回だけでしたが毎日続けて入ると体に溜まっている化学物質が一気に出て、肌は突っ張ったりせず傷の治りも早く気分も調子も良くられました。
2014年11月7日、松本漢方クリニック診察。前回の血液検査の結果で栄養状態も良くなり炎症反応も出ませんでした。28日分の漢方と塗り薬を処方し、予定通りカトマンズへ出発されました。
2014年8月に診察に行ってからたったの3ヶ月でここまで回復されました。では以前までの免疫を抑制する対処療法を21年間行ってきたことは一体なんだったのでしょうね?この方も潰瘍性大腸炎からクラススイッチをしてアトピーを起こし、自然後天的免疫寛容を無事起こして完治されました。もう当院には通われておりません。