症例報告1例目
完治された病名1)慢性腎炎
患者:70歳、男性
1999年10月、体調不良により大病院で健診を受けられました。一週間後、腎臓が悪いとのことで至急入院が必要と勧められ、全部で7回も腎臓内科に入退院を繰り返されました。毎日検診、検診を繰り返され、慢性腎炎と確定診断され、食事制限と大変な日々を送りました。
12月に退院され、その後、長女の勧めで松本漢方クリニックに来院されてきました。漢方煎じ薬を処方し、2~3日飲み続けると急に体調が良くなり、その後も治療を続けると腎機能が完全に正常になりました。
その後も健康のために当院での治療を3年程続けられました。日常生活で病気の不安がなくなり、会社にも出勤されて元気な毎日を過ごされました。
症例報告2例目
完治された病名1)慢性腎炎
患者:48歳、男性
この患者さんは21年間、東京で長い下積み、厳しい修行を経て職人になられた方でした。人の何十倍も努力されてきましたが、毎年、病気や怪我がとても多かったとのことです。無理をして調子が上がってくると大きな怪我や病気になって体が危険信号を上げて続けていました。
2008年3月、諸事情から東京から生まれ育った大阪へ移り、知人の紹介で会社員として働くことになりました。大阪では以前の様な職業で生活は難しかったため、43歳にしてサラリーマンにならざるを得ませんでした。それからは地獄のような日々でした。今まで芸術系、技術系と職人気質な仕事ばかりしてきて会社のルールや社会になかなか溶け込めず、胃痛ものだったそうです。それだけでなく、書籍づくりの仕事柄、パソコンも使いこなさなければいけませんでした。
また会社は商売ですから、お金のやり取り云々が苦痛でした。へりくだった物言い、言葉巧みに利益を得る。全てはお金のため。それがうまく出来ないものは会社員としては失格。兎に角、少しでも多くお金を分捕れ!というものに辟易としていました。しかし当時はもうこの仕事でしか食べていけないと思っていたため、相当なストレスを溜め込み続けました。
数ヶ月後、会社の健康診断を受けました。今まで健康診断で引っ掛かったことが一度もなかった患者さんはいつものように軽い気持ちで受けられましたが、結果は腎臓に異常が出ているため大きな病院で精密検査をするようにとのことでした。2008年8月に大病院へ受診され、検査の結果、慢性腎炎と診断されました。そこの担当医は、「腎臓病は肺の病気と同じく一度壊れたら絶対に治りません!」「暫くは薬を飲んで様子が改善しない場合は手術を強くお勧めします!」「それもこれもあなたに透析生活をさせないためです!」等々熱く捲し立てられました。患者さんは不安で一杯一杯なのにどんどん畳み込んで来られて不安が募り、不安から恐怖に転移して行きました。
患者さんは手術を断り、食事療法を続けました。食事の量が減って。2008年9月からの半年間で簡単に20㎏激減し60㎏まで落ちました。それまでは80㎏超えの立派な体格で、ここまで落ちたのは高校生以来だったそうです。毎月3㎏のペースでどんどん落ちていくため、一日に何度も貧血が起こり、頭が殆ど回らず、立っていられないほど体力が落ち、とても仕事が出来る状態ではありませんでした。
さらに追い打ちをかけるように、会社側が患者さんを自主退職させようとあの手この手で辞めさせようとしてきました。患者さんは生活のためと、出版の人間として会社側のやり方に真っ向から勝負をしてしまいました。気力も体力もない中でさらにストレスを抱え込んでしまい病気はさらに悪化していきました。
最後はまさに自爆するようにして退社されたとのことです。会社を辞めて、しばらくは治療に専念しようと担当医の手術押しをどうやって違う治療方法にお願いするかと思案していました。するといつもの大病院へ行くと担当医が突然移動となり、これを機に病院を変え、日本でも屈指の腎臓の専門医がいると言うK病院で治療を受ける事にされました。しかし、そこでの治療は3日間ステロイドを点滴で流し続けられながら今後のベストな治療法を模索するというものでした。入院の日取りも決められ、もう諦めの境地でいた入院3日前、親戚から偶然、松本漢方クリニックの話を聞く機会があり、早速自宅で当院のホームページを読まれました。私の書いた内容がすんなりと頭に入っていき、すぐ当院へ行くことを決心されました。
K病院へ断りの電話をし、2009年9月25日に松本漢方クリニックへ来院されました。私は絶対に治します!といつもどんな患者にも言う言葉を患者さんにも言って安心させ、漢方煎じ薬を処方し、何かあればすぐ連絡できるように私の携帯電話の番号を伝えました。患者さんは帰りの電車の中でウキウキしながら帰路に就いていたそうです。
会社との激闘で疲れきっておられましたが、人生初のハローワークに通うことになり、仕事に追われるのも暫しやめて、漢方薬治療を始めました。心身ともに疲れきっていたため、ゆっくり休められました。
腎臓疾患は、風邪もそうですがインフルエンザは特にハイリスクだと説明していたので体調管理に気を付けてもらっていましたが、12月にインフルエンザに罹ってしまいました。物凄い出血に、尿の色は赤ではなく焦げ茶色~真っ黒なものでした。
その後も数ヶ月に1回のペースで松本漢方クリニックに通ってもらい、血液検査をして頂きました。検査する度に数値が下がっていくため、患者さんは俄然やる気が出てきました。現在では風邪を引いてもインフルエンザにかかっても、以前の様な迫力のある恐ろしいほどの色と出血は出なくなりました。血液検査の数値も正常です。腎炎と診断されたのがまるで夢幻だったんじゃないかとまで思えるほど、日常生活を過ごせるようになりました。もう当院には長い事、来られていません。
症例報告3例目
完治された病名1)糸球体腎炎
患者:10歳、男の子
健康そのもので闘争心溢れるサッカー少年の長男にある日、血尿が出てきました。紆余曲折がありながらも結局、慢性腎炎と診断され、このままでは腎生検とステロイド治療を受けるしかないと言われ、ステロイドの副作用や腎生検の効果の不確かさを知っていた為、ご家族は絶望に襲われました。そんな時、関西まで出かける用事があったため、以前から気になっていた松本漢方クリニックに患者さんを連れて受診することを決心されました。腎炎について詳しく詳しく解説されている論文がありますので、詳しく知りたい方はここを読んで下さい。また、一度傷ついた糸球体が修復されにくいのか、なぜ腎炎の炎症がないのにもかかわらず尿にタンパクや赤血球が出ていくのかついて詳しく知りたいかはここを読んで下さい。
2013年4月10日早朝、当時9歳の患者さんに腹痛と38度の高熱が襲いました。救急病院へ受診され、2日後に肉眼的血尿と蛋白尿、低補体を伴うことから、急性糸球体腎炎と診断されました。医師からは安静にして、塩分制限、運動制限を行い自宅療養1〜2ヶ月で自然治癒すると伝えられ、ご家族は胸をなで下ろして帰宅されました。熱が下がり、発症後3日目にして既に登校可と伝えられていたそうです。通常、急性糸球体腎炎は、発症直後〜1週間は絶対安静、1ヶ月は安静入院といわれる程、慎重に扱わなければならない病気とされています。私は免疫は最高の医者といつも言っていますが、実は腎炎を治すのは一番時間がかかるのです。もちろん腎炎を治すのも自分自身の免疫の遺伝子なのですが、一度腎臓のどこかに炎症が起こると修復するのが一番難しいのです。
何故、腎臓は修復するのに一番時間がかかるのでしょうか?それは腎臓の機能が複雑かつ精巧であり、どの組織の何万倍も多くの毛細血管から成り立っており、この毛細血管を通じて血中に溶けている老廃物や異物を濾過して排除する場所であるからです。この濾過装置を糸球体といいます。ひとつの腎臓に約100万個の糸球体があり、2つの腎臓で約200万個あるのです。ひとたびこの腎臓の糸球体に一箇所でも傷がいくと、それを修復することが極めて難しいのです。その理由について詳しく知りたい方はここを読んで下さい。
医者の言う通りにされ、普段通りの生活に戻りました。しかし患者さんのお友達のお誕生日会に呼ばれた次の日、学校で気分が悪くなり早退されました。休日でも午前中に昼寝をするほど、患者さんの身体は安静を求めていたようです。1週間おきに通院先の救急病院で診察を受けて状態をチェックされていました。夜中に酷い腹痛が起こったりとご家族は落ち着かない日々を過ごされていましたが、いつか治ると信じて塩分制限解除を心待ちにし、医師の指示通りに生活されておられました。
5月のゴールデンウィークになるも、どこにも行かず、できる限り安静に過ごそうとされましたが、患者さんの友達の声が聞こえて外に出たがったり、患者さんを大人しくさせるのが難しかった。
また祖父母の来訪の夜、気分が悪くなり翌日38度の発熱が起こりました。学校で流行っていた時期外れのインフルエンザを疑い、日曜診療を受けるも陰性。今すぐ入院するほどのことではないと言われました。後に、初診時に検出されなかった溶連菌が喉から検出され、10日間の抗生剤を服用されました。しかし、血中のASO(anti-streptolysin O)は反応なし。抗ストレプトリジン-O抗体、英語でanti-streptolysin Oと書き、略してASOは、溶血性連鎖球菌に感染しているかを確認できます。医師から補体が低い間は感染症にかかりやすいと告げられていましたが発熱の原因はわかりませんでした。
ゴールデンウィーク以来、体調に変化は起こらなかったが1週間おきの診察が続きました。
補体が正常値に戻りませんでしたが、蛋白尿が±に落ち着くと、マラソンや競泳などの激しい運動を除いて運動制限が早くも無くなったとのことです。この時、発症して1か月半が経ち、5月下旬のことでした。
発症後2ヶ月程ぐらいに塩分制限、運動制限の解除がされ、サッカークラブ活動も再開し普段通りの生活に戻った2週後の診察で腎生検の可能性を医師から示唆されました。補体の値が全く動かず、尿の所見も悪かったためです。これまで診察時の蛋白尿は±と安定していましたが、その日の検査では蛋白尿が++を示していました。このまま補体が戻らないと、他の慢性腎炎を疑う必要があると医師に言われました。
患者さんご家族は自宅でも血圧、体重、尿検査を行い記録されていました。6月に入ってから尿蛋白が検出されるようになり、のちにサッカー再開の時期と重なっていることがわかりました。患者さんはサッカーの練習を頑張り過ぎてしまい腎臓に症状が出てきてしまったのです。
医師から、蛋白尿が出続けると腎臓の機能が壊れていくことを示しており、そして一度壊れると元に戻らないので、蛋白尿の消失がとても重要になってくると言われました。しかし現在はステロイド剤か免疫抑制剤といった薬物療法でしか治療ができないと知りました。自分の息子の腎臓が破壊されていく、どうして息子がこんな目に…、ご両親、特に母親は精神的に追い詰められていきました。毎日自宅でやっていた検尿もできる精神状態ではなくなり、蛋白尿が++に振られた時には目の前が真っ暗になって心配で胸が惜し潰れそうになり、不安にかられ、ギリギリの状態が続きました。
確定診断と治療方針を定めるための腎生検が7月上旬に計画されました。医師の判断により夏休みを待たずに検査を行うべきとのことでした。
腎生検とは、鉛筆の芯の太さの針で腎臓の組織を2〜3箇所採取し、その組織を光学顕微鏡で確認し、組織の状態によりいくつかに分類される糸球体腎炎に診断し適切な治療を決めるものです。検査で1週間、その後の点滴治療(ステロイドパルス療法)で3週間の入院が必要だと告げられました。腎生検実施日までに何かできることは何でもしようと、漢方で定評のある北里大学の東洋医学研究所に行かれました。しかし診断結果を狂わす可能性もあるため腎生検の結果を待った方がよいとの見解で薬の処方はしてもらわず帰宅されました。腎生検直前の診察、蛋白尿が±に落ち着いていたため、急がずに検査を夏休みまで見送ることになりました。発症して3ヶ月目に入ろうとしていました。
漢方服用に未練のあった父親は、再び患者さんを北里研究所に連れて行き、柴苓湯(サイレイトウ)を飲み始めることになりました。激しい運動であるサッカーはやめた方が良いという祖父の反対意見を他所に続けておられました。夏も本番にさしかかり、体力消耗も激しく練習後の疲労が普段以上であることは察していたものの、普段の元気な姿と医師の運動OKを信じて疑わず、本人の意志を尊重するという大義名分でサッカーを続けていました。しかし、終日遠征試合の夜、気分が悪くなり、食事もできず疲労しきった患者さんの翌日の尿は蛋白が+++となっていました。身体負担が腎臓に負荷を与えることにようやく気づいたのです。
腎生検をするか否か、ステロイドによる治療を受け入れるしかないのか、絶望しながら悩んでいた時、患者さんの妹が熱を出し母親は会社を2日間休むことになりました。妹さんが寝ている間に母親は腎炎について情報を収集でき、そして松本漢方クリニックに行き当たったのです。当院との出会いで治療の方向性を大きく変えるきっかけになったそうです。補体や腎炎のメカニズムまですべて的を得た内容に合わせて、当時掲載されていた患者による闘病手記も読んで手ごたえを感じ、さらには偶然にも関西方面に行く用事があり、背中を押されるように大阪の松本漢方クリニックへ行くことを決意されました。
また母親もアレルギー疾患により漢方治療を行った経験から西洋医学ではアレルギーや腎炎などの原因がはっきりしていない病気については、根本的な治療にならないことを再確認されました。
2013年7月28日、松本漢方クリニックで初診察。患者さんの顔を見て真面目で頑張り過ぎる性格が出ていました。体を休めるためにもサッカーはしばらく止めるように指示し、漢方煎じ薬を毎日飲んでもらい、週1回の漢方風呂を処方し、毎日お灸をするようにお灸のやり方を教えて診察を終えました。
関西旅行を終えた後、患者さんは疲れからか高熱を3日間出し続けました。尿は松本漢方クリニック訪問時に、蛋白尿++++のMAXを示していたため、母親は命を失うのではないかと心配になるほど生きた心地がしない3日間を過ごしたとのちに言っていました。また悪いことは重なり、西洋医学から東洋医学へと大転換したことに、病気の経過を熟知していた実母から猛反対され、家庭の雰囲気が悪化していきました。精神状態が限界に近かった母親は気持ちが揺れ、それに父親が激怒して話がまとまらず家庭崩壊の危機に陥りました。限界を迎えた母親は義理の母に連絡を入れました。夜中にもかかわらず駆けつけてくれた義理の両親は、治療方針の転換に賛同してくれ、住み込みでサポートしてくれました。限界を超えていた母親は家庭をさせる自身と気力もなく、立っていられないほどの精神状態でしたが、義理の両親により母親の心の支えになってくれました。また義理の両親がいることから実母の出入りがなくなり、ご家族のペースで治療に専念する体制がやっと整いました。
各方面から免疫力を上げる書籍を片っ端から読み漁り、東城百合子氏の自然療法に基づく玄米菜食、ビワの葉のこんにゃく湿布、安保徹氏の爪もみなど東洋医学に基づいているものは全て取り入れ、当院で処方した漢方煎じ薬とお灸、週1回の漢方風呂による自宅治療を始めました。とにかく腎臓に良いことは惜しまず何でもする。そんな方針で夏休みの間は義理の両親と二人三脚で治療に取り組んでおられました。腎生検を絶対にしないと決断し、発症後から通院中の病院での診察(2週間おきに1回)は腎生検の遅延を目標に毎回クリアする気持ちで挑まれていたとのことです。幸いにして、患者さんは一刻を争うほどの状態ではなく、大人しく安静に過ごしていれば蛋白尿が抑えられる事がわかったため、じっくりと漢方治療に臨みました。
独特な苦味のある漢方薬は当然患者さんには苦く、最初はハチミツ入りで1回50mlが精一杯で、1日300ml飲むべきを2~3日かけて飲まれていました。また生姜のきいた漢方薬は全く飲めなかったので、まずは1種類の漢方薬を飲むことに専念してもらいました。
2週間が経ち、漢方薬に飲み慣れてきたところで、生姜のきいた漢方薬を1日1回は飲むようにして少しずつ増やしていきました。慣れてきてハチミツ無しでも飲めるようになり、夏の終わりには2種類の漢方薬をしっかり飲めるようになりました。お灸も暑くて痛かったのが慣れてスムーズに施術できるようになりました。
自宅での尿検査は週1回を心がけ、食事や治療の記録なども取りながら様子を見ていたとのことです。
9月、いよいよ新学期が始まり、学校生活を無事に送れることを目標に無理のない生活を心がけ過ごしてきました。漢方薬を飲む回数が減る、学校給食はどこまで制限するか、残暑の残る中で運動会の練習は大丈夫か、ご家族は心配が絶えませんでしたが、大きな変化が起こることなく学校生活を送られました。
9月半ば、十字式健康法という背骨の曲がりや歪みを整えて体の不調を和らげる施術を毎週月曜日に東京の品川まで通院されました。初めての施術で身体への影響も大きく、数時間後、患者さんも身体に異変を感じはじめ、今までにない反応を示し、7時半には就寝、11時間以上昏睡されたそうです。「腎臓の位置が基に戻れば、尿検査の成績も徐々によくなっていきますからね。」不安な事はなんでも相談に乗ってくれ、また腎生検の実施有無についても、「医者は白黒させたいからね〜、針刺されるのは患者さんだし、慌てる必要はないですよ。サッカーは可哀想だけど、ちょっと我慢しようね」という言葉に胸をなで下ろしました。
蛋白尿を検出することは自宅療養に入ってからはなくなっていましたが、潜血は+++3が続いていました。少しずつ++2に変化していましたが大きくな変化は起こりませんでした。最後に1ヶ月ぶりの地元の通院先の診察でついに潜血++2になっていました。主治医の反応は全く表情を変えず「補体はまだ低いですね。」このまま低値を示し続ければ、1年間放置もできないから腎生検を検討した方がよい、とコメントされました。経過観察は続くが、状態は悪くないため、次の診察は2ヶ月後の12月となりました。
そしてこの頃から潜血が急速に減っていきました。++2から+1へと変化していく中で、ヘモグロビンが検出されない(赤血球が壊れてない)試験紙の潜血反応に変化も出てきました。試験紙の潜血には2種類の陽性反応があるのです。ヘモグロビンがあると何かとの結合があることを意味し、それがなくなるということは炎症が引いて回復に向かっていることを説明しました。上向きになり始めた!と勇気が湧いたと母親は言っておりました。母親曰く私との電話ではいつも「絶対治るで〜心配いらんよ〜」と声掛けしますが絶対的な自信を持っていることが伝わり、治療に大きな安心感を与えてくれていたとのことです。
それからというもの、みるみる潜血の反応が減っていきました。そして2ヶ月ぶりの診察日を迎え、12月16日、蛋白、潜血ともマイナス、小児の正常値が30〜40と言われているCH50(補体)が10台の低値を示して8ヶ月目にして37.2に回復していたのです。
3ヶ月後の2014年3月の診察を最後に通院を終了しました。実に1年間の闘病生活でした。今では以前の様に元気に遊び回れるようになりました。