いまを去ること90年前には癌を始めとする人々を苦しめる、あらゆる種類の病気を、完全に治療する方法を、見つけたロイヤル・レイモンド・ライフ博士という人物がいました。1888 年に米・ネブラスカ州で生まれました。母は、ライフが生まれて 8 ヶ月後に病気おそらく癌で他界しました。彼は幼くして病気で母親を亡くした悲しみの原因を探ろうとして医者になることを決意し、ジョンズ・ホプキンス大学に進学し、医学を勉強し始めました。更に病気の弁院である微生物の研究をやり始めたのですが、当時の顕微鏡の倍率の限界が2500倍で有ったのでしかもウイルスを生きたまま観察できる顕微鏡を作るべく当代随一の技術を有するドイツの光学レンズ会社・ツァイス社で働き、光学レンズについての知識を深めました。
ライフ博士は、専門分野をいくつも独学で身につける才能を持っており、直感で難題の答えを見つけ出す天才の科学者でした。新たな目的のために新しい機会が必要であればすべて自分で機械を設計し発明したのです。
1910 年代当時、がんやその他の病気の原因である病原菌の真の正体をとらえようと研究していたライフ博士は、当時の顕微鏡の性能に限界を感じていました。当時の顕微鏡の倍率の限界であった 2500 倍では、実際に病気を引き起こしているウイルスを見ることはできないと、自らの手でより優れた性能の顕微鏡の開発に乗り出します。
そして、 1920 年までにライフ博士は、ウイルスを見ることができる世界初の顕微鏡を完成させました。また、 1933 年には、約 6000 個の部品で作り上げた驚くほど複雑な装置である「ユニバーサル・マイクロスコープ」を完成させました。
これは、 60000 倍もの倍率を誇る顕微鏡です。 この驚異的な顕微鏡によって、 ライフ博士は生きたままウイルスを観察した世界初の人間となったのです。現代の電子顕微鏡を使用すると、その観察下で即座に全ての微生物は死んでしまいます。そのミイラ化した残骸か死骸が観察できるだけなのです。一方、ライフ博士の顕微鏡のもとでは、生きているウイルスが目まぐるしく動き回り、環境の変化によって形を変えたり、発がん性物質と反応して素早く複製したり、また正常な細胞をがん化させていく様子を観察することもできたのです。極小の微生物を生きた状態で 観察できるのは、診断と治療という目的のためには、非常に重要なことでした。
ライフ博士は抜群の拡大率を持つ顕微鏡を作るだけでは、無色のウイルスを見るには不十分であることに気付きました。既存のアニリン染料で無色のウイルスを着色することはうまくできなかったのです。ウイルスは染料のコロイド粒子を吸収するには小さすぎたのでした。
そこで、 ライフ博士は、まずスリット分光器を使って、辛抱強く様々な病原菌、細菌のひとつひとつの分光学的特徴を特定しました。スリット分光器は波長差を空間的な差異に置き換えることで測定を行います。スリット分光器には「プリズム」や「回折格子」のような部品が内部に入っているのは屈折や回折の効果が光の波長によって変わるという性質を使うためです。スリット分光器に入ってきたビームがプリズムによりどのくらい曲げられたかを測定すれば、光の波長やスペクトルの分布を調べられるわけです。屈折等による角度を調べる場合、ビームの太さの分だけ測定に誤差がでますが、
スリットを狭くするなどして、ビームの幅を小さくすることができれば、その分だけビームの角度を正確に測定できるようになります。その後、石英ガラスにより製造されるプリズムは、紫外線波長において特に優れた透過特性があることを知っていたライフ博士は、石英ブロックのプリズムをゆっくりと回転させ、研究対象の微生物に特定の波長の光を当てます。この特定の波長は、現在では立証されている「すべての分子は固有の周波数で振動している」という事実に基づいて、分光学的特徴である固有の周波数と共鳴する波長を選択したのです。以上の操作の原理を説明しましょう。
すべての分子を形作る原子は電磁波を出しており、共有結合をしたエネルギー特性を持つ分子構造の中で、その分子固有の電磁波周波数 を出したり、吸収したりしています。そして、同じ電磁波振動やエネルギー特性を持つ分子は二つとしてありません。ちょうど海で二つの波が重なると激しさが増すのと同じように、ある分子とその分子固有の周波数と同じ波長の光が重なると共振現象によって光が増幅され、光の強さが強まるのです。光の強さというのは光度と言い光源から電磁波の束がどのくらい放射されているかを表す値です。言うまでもなく光は2種類あり、人間の眼で感じることのできる波長範囲である可視光線と、人間の眼では認識できない葉長が短すぎる紫外線と波長が長すぎる赤外線です。
共振する特定の色の波長の光をウイルスなどの微生物に当ててやると、それまで通常の白い光のもとでは見えなかったその微生物が 、その色の光に共振してあざやかにその姿を現します。ライフ博士はこのようにして、通常の光では見ることのできない微生物を見て、ウイルスが活発に細胞組織を侵食していく様子を観察できたのです。
以上に説明した特性を持つユニバーサル・マイ クロスコープを使ってライフ博士が見ることのできた微生物のうち 75 %は、紫外線を使ってのみ観察できるものでした。そして、紫外線は波長が短いので可視光線の波長の範囲外の光なので人間の肉眼でみることができません。そこで、ライフ博士は初期のラジオ放送ではよく用いられていたヘテロダイン(周波数を変換する技術)を使い、この問題を解決しました。
それはどのようにして問題を解決したかというと、まずそのウイルスなどの微生物に共振する紫外線の波長のうち、二種類の異なる波長の光を当てます。紫外線であるこれらの光は、重なり合うとお互いの波長を妨害しあい、それぞれの振動数を弱めます。このように二つの光の波が干渉しあい、お互いの波を弱め合い、打ち消しあうことによって、より長い波長の光が新しく生まれます。これは、紫外線は可視光線の範囲の波長の光であるため、肉眼で見ることができるのです。このようにして、ライフ博士は、現代の電子顕微鏡でもまねのできないウイルスを生きたまま観察する技術を完成させたのです。波の干渉(interference)とは、複数の波の重ね合わせによって新しい波形ができることである。波のとき干渉が顕著に現れるのは、同じ波源から出た波や、同じもしくは近い周波数を持つ波である。
このような技術を使って、ライフ博士は、 なんと 1920 年にはヒトにがんを作るウイルスをすでに発見していました。 正常な細胞をがん化させる研究を 2 万回以上試みたのです。さらにこの微生物の培養液から 400 種類もの腫瘍を作りだすことにも成功しました。そして、これらの過程をすべてフィルムや写真に収め、その詳細にいたるまで記録に残しこの癌ウイルスをクリプトサイズ・プリモーディアルズと命名したのです。
バージニア・リビングストン博士は、ニュージャージ 州からライフ博士の研究所のあるサンディエゴに引っ越して、頻繁にライフ博士の研究所を訪れました。彼女は、がんを引き起こす様々な細菌を特定した研究書を 1948 年から出版し始め、今ではその功績が讃えられる有名な科学者です。彼女は、後に研究書の中で、がんウイルスを“プロジェニター・クリプトサイズ”と新しく名付けています。しかし、ライフ博士の名前は、彼女の研究書の中には、一切記されていません。実際、このようにライフ博士の研究による大発見のほとんどが、ライフ博士の功績としては認められていないのです。
ライフ博士は、 1930 年代当時の科学者には信じられないほどに進んだ境地に達していたため、理解できる人がいませんでした。そのため、多くの科学者は、米・サンディエゴにある博士の研究所を実際に訪れて、自分の目でその事実を確認したのです。
ライフ博士は、 すべての物質と同様に、目には見えないレベルでウイルスもそれ独自の振動数で、振動していることに着目しました。そして、そのウイルスと共振する周波数の光を照射して、ウイルスをさらに振動させました。 微生物がその構造的な形を維持するのに耐えきれなくなるまで照射レベル(光の強さ)thinnkerをさらに上げてやると、ウイルスの形は歪み、崩壊してしまうのです。 ライフ博士は、この周波数を「致死反応振動数(MOR)」とよびました。そして、 この「致死反応振動数(MOR)」の光は、ウイルス以外の周りの正常な細胞には、いっさい害を与えないのです。MORはmortal respons frequencyの略語です。
また、 電気を使用した治療法なので、実質的にわずかな電気代しかかからないため、治療費もたいへん安いものでした。脱毛などの副作用に苦しんだりすることもなく、患者は、すみやかに治療されて、無事に家族の元にもどれるのです。抗がん剤を用いた化学療法や放射線療法や外科手術のように命を危険にさらす必要もありません。
この治療法の仕組みは、ワイングラスをある特定の音波で、破壊できることに似ています。目には見えませんが、ワイングラスの分子は、すでにいつも特有の音(その音波のいくつかの高調波と同じ振動数)で振動しています。高調波(こうちょうは)とは、ある周波数成分をもつ波動に対して、その整数倍の高次の周波数成分のことである。音楽および音響工学分野では倍音と呼ぶ。元々の周波数を基本波、2倍の周波数(2分の1の波長)を持つものを第2高調波、さらに n 倍の周波数(n 分の1の波長)を持つものを第 n 高調波と呼ぶ。その音と共鳴しているのです。全てのものは、その物質個有の振動数で振動しているので、その音波で破壊されるのは、そのワイングラスだけです。まさにありとあらゆる全てものは、他とは異なるそれ固有の共鳴振動数を有しており、それこそありとあらゆる周波数が存在しているのです。
この技術を完成させるのにライフ博士は、ヘルペスや小児麻痺、脊髄膜炎、破傷風、インフルエンザなどを含む数多くの危険なウイルスなどの病原菌を破壊する特定の周波数を発見するために一度に丸二日( 48 時間)通しで働くという生活を長年行っていました。
1929 年、「ライフ博士が開発した顕微鏡でウイルスの生態の観察に成功した」という新聞記事が出ると、アーサー・ケンダル博士が友人のミルバンク・ジョンソン博士にライフ研究所を訪問して、本当か確認してくるよう依頼しました。依頼の通り研究所を訪問した、ミルバンク・ジョンソン博士は、ライフ博士の先進的な研究に興味を持ち、協力者となりました。また、アーサー・ケンダル博士も、ウイルスを培養して、生きたまま観察できる培養液(K- medium) を開発し、ライフ博士と共同研究をはじめました。
そして、 1931 年 11 月 20 日には、ミルバンク・ジョンソン博士による晩餐会が催され、米国内で最も尊敬される医学界の権威である 44 人が、ライフ博士とアーサー・ケンダル博士の共同研究の功績を祝いました。
1934 年、南カリフォルニア大学は、特別医療研究委員会を設立して、ミルバンク・ジョンソン博士のパサデナ郡立病院の末期がん患者を対象にライフ博士の研究所でがん治療実験を実施しました。その研究チームには医者や病理学者が加わり、患者の診察を行いました。 3 カ月の診療の後、委員会は 86.5 %の末期がん患者が完全に治癒したと報告したのです。さらに治療は継続され、残りの 13.5 %の患者も 4 週間後にはこの治療によって完治してしまいました。ライフ博士の技術による治癒率は何と 100 %だったのです。 現代の最先端治療でさえ、がんの平均治癒率は、 15 ~ 30 %と言われていますから、この数値が、どれほど驚くべきものかおわかりになるでしょう。
しかし、驚いたことに 1939 年までには、晩餐会にまつわる医者や科学者のすべてが、ライフ博士という人物に会ったことなど一度もないと証言する事態にいたります。ともに、研究をしたアーサー・ケンダル博士や、よき協力者であったミルバンク・ジョンソン博士も例外ではありませんでした。いったい何があったというのでしょう。
悲劇の兆候は、まずライフ博士を買収することから始まりました。 1934 年 には、米国医師会の株式をすべて所有していたモーリス・フィッシュベイン氏が、弁護士をよこして、ライフ博士の治療法の独占権を渡すよう要求しました。しかし、ライフ博士は、それを断ったのです。
ユダヤ人のアメリカ医学協会の会長であったフィッシュベイン氏は 、過去にも、がんの漢方治療と同じ薬草治療を開発したハリー・ホークシー博士を押さえこむために、圧力をかけたことがあります。フィッシュベイン氏は、強力な政治的影響力を行使して、 16 カ月の間にホークシー博士を 125 回も逮捕させたのです。全ての罪状は、無免許での医療行為であり、裁判では訴追を免れ ましたが、この度重なる嫌がらせのおかげで、ホークシーは精神的に追い詰められました。フィッシュベイン氏は、アメリカ医学協会の会長であり、アメリカ医学協会誌の主任編集員でもありながら、生涯一度も患者を診たことがありませんでした。彼は命を救うことよりも、金銭と権力への飽くなき欲望に意欲をもやす人物でした。
フィッシュベイン氏は、ライフ博士に対して同様の作戦を用いることは裏目に出ると考えたため、ライフ博士は、ホークシー博士のように無免許での医療行為と称して逮捕されませんでした。というのは、もしそのように疑惑をねつ造して、逮捕させてから裁判に持ち込んでも、ライフ博士と研究をともにしていた著名な医療関係者たちが博士を弁護する証言台に立つことになります。そうなると、当然、弁護側は、 1934 年のパサデナ郡立病院での臨床試験を持ち出してきます。 医薬品業界が一番恐れているのは、この痛みも費用もかからずに末期がんを 100 %完治させてしまう治療法の存在が明るみに出てしまうことなのです。そうなると製薬会社の作る高価な抗がん剤は売れなくなってしまいます。それに付け加え、ライフ博士は長年の研究内容の全てを詳細にいたり、フィルムや写真に収めています。これ以上の明確な証拠はありません。
だから、まったく別の方法 で潰されたのです。まず、ライフ博士の研究所からフィルムや写真や研究書類の多くが盗まれました。しかし、容疑者が逮捕されることはありませんでした。そして、ライフ博士の研究を立証するため、何億円もかけて設立されたニュージャージー州のバーネット研究所が放火されたのです。
これによって 、ライフ博士も窮地に立たされました。というのは、コンピューターがなかった時代にこれらのデータを復元することは大変なことだからです。さらに、ライフ博士の貴重な顕微鏡は何者かによって、破壊され、 5682 もの部品が盗まれました。そして、最後にとどめを刺したのは、警察による令状なしの捜索と違法な没収です。これにより、 50 年に渡るライフ博士の研究の残骸もすべて処分されてしまったのです。
モーリス・フィッシュベインはAMA(米国医師会)の理事長である彼は、医療業界にとって不利益になる数々の治療法を弾圧してきました。さらに彼はライフ博士を完膚なきまで叩きのめすために徹底的な圧力と破壊をライフ博士に加えたのです。
1939 年には、製薬産業を牛耳る一族の代理人は、元ビームレイ・コーポレーション社員の、フィリップ・ホイランド氏を援助して、ビームレイ・コーポレーション社のライフ博士のパートナーを相手取って根拠のない訴訟を起こさせました。このビームレイ・コーポレーション社は博士の治療器を製造していた唯一の会社でした。ホイランド氏はビームレイ・コーポレーション社において、ビームレイ社の周波数治療器の製造と改良を担当しました。後にAMA(米国医師会)の支援を受け、ビームレイ・コーポレーション社を相手取って難癖をつけて長引く訴訟を起こし、ライフ博士を疲弊させました。ホイランド氏は、敗訴しましたが、この訴訟を起こすことによって、ビームレイ・コーポレーション社に莫大な訴訟費用の負担をかけ、倒産に追い込みました。当時、世界恐慌の時代 のさなか、この会社が倒産することは、ライフ博士の治療器が商業的に生産される道が、完全に閉ざされてしまうことを意味していたのです。同時に、ライフ博士を擁護した医者たちもすべて、研究費の支給が打ち切られ、職場を追われることになりました。
世界恐慌 または 大恐慌は、1930年代にアメリカを皮切りに世界的に起こった深刻な経済恐慌のことである。 世界恐慌の時期は国によって異なり、ほとんどの国では1929年に始まり、1930年代後半まで続いた 。 それは20世紀の中で最も長く、最も深く、最も広範な不況であった 。世界恐慌は、1929年9月4日頃から始まったアメリカの株価の大暴落に端を発し、1929年10月24日の株式市場の暴落(通称 暗黒の木曜日 )で世界的にニュースになった。
一方、ライフ博士の治療法について知りながらも、それについて口を固く閉ざした者には、多大な資金的援助があてがわれました。博士の研究を抹殺するには、いっさいお金に糸目をつけなかったのです。なぜかといえば、日本を例にすると、がんの先進医療に対し、一人当たり平均して、約 300 万円(自己負担金額)も費用がかかります。つまり、膨大な利益を生む一大産業なのです。現代の癌の遺伝子治療は一人1000万以上かかるのは当たり前になっており一番高い遺伝子改変による癌治療費は5000万円です。しかもライフ博士の癌光治療は癌を治すことはできますが現代の最先端の高価な遺伝子治療はどれも癌を絶滅することはできないのです。治さなくってもお金をもらえるという無責任なアメリカの資本主義医療はいつまで続くのでしょうか?
このような事情から、当時、ライフ博士とがんウイルスの研究を共にしたノースウェスタン・メディカル・スクール理事長のアーサー・ケンダル博士などは、当時では破格の 2500 万円もの恩給を受け取り、さっさと引退してメキシコに引っ越してしまったし、また別の高名な医学博士で、ライフ博士と共同研究したにもかかわらず、固く口を閉ざしたジョージ・ドック博士なども莫大な恩給を受け取り、米国医師会から最高の栄誉ある地位を授与されています。
関係者のすべてが、アメとムチで釣られていく中で、クーチェ博士とミルバンク・ジョンソン博士だけは、ライフ博士の研究を続行することを断念し、もとの処方薬を用いた医療の世界に戻っていきました。また、製薬企業からの資金で出版され、米国医師会によって牛耳られている医学雑誌は、 ライフ博士の治療について、どんな形であれ掲載することを禁じています。そのため、医学生は大学で勉強中も就職後も、ライフ博士の医学上の大発見について全く知る機会もないのです。
ライフ博士の生きた時代は、まさに文明が急速に進化していった時です。馬から自動車、そして、飛行機へと。ライフ博士は、 1905 年にアメリカ人の 24 人に 1 人が、がんにかかっていた時代から、亡くなる 1971 年には、それが 3 人に 1 人の割合まで急速に増えていく様をみつめていたのでした。
ライフ博士はまた、 米国がん協会やソーク・ファウンデーションなどその他の多くの医療組織が、ライフ博士自身が自分のサンディエゴの研究所でとうの昔にすでに解決してしまった病気の治療のために、数百億円もの資金を調達し、その後それらの医療組織が急速に大成長を遂げていった様子もすべて知っていました。 ある時期には、 176,500 種類ものがん治療薬が医薬品として認可されるために検査を受けていたこともあります。これらの中には、わずか 0.17 %でも好ましい結果が得られただけで医薬品として認可されたものもあります。また、致死率が 14 ~ 17 %もあるもので認可されたものもあるのです。この結果、がんでなく医薬品の副作用で死亡した ケースにおいても、診断書には「完了」とか「部分的緩和」と書かれます。なぜなら、患者は実際がんによって死んではいないからです。事実、 医学界におけるがん治療において重要とされているのは、患者ががんで亡くなる前に薬の作用で殺して、それでがんに勝ったことにしてしまうことなのです。
無知な一般大衆を愚弄する恐ろしいシステムが大手を振ってまかり通るのは医薬業界が治療の独占権を握っているからです。さらに医者である身内同士がかばいあってみて見ぬふりをして批判する医者は誰もでてこないのです。批判すれば即座に村八分にされてしまうのです。やはりライフ博士のように癌を作るのは彼が命名したクリプトサイズ・プリモ-ディアルズというウイルスであり、このウイルスが癌の原因であるのをまず証明してこのウイルスを光療法で殺せば癌細胞が死に絶え末期がんも治せるという証拠のあるものだけを認めるべきです。私は彼が命名したクリプトサイズ・プリモ-ディアルズというウイルスはherpesの仲間だと目星をつけています。何故ならば全ての人に感染し、しかもすべての人の細胞に感染し、すべての感染したに細胞の人の遺伝子であるDNAにアットランダムに潜り込みプロウイルスとなり好き放題に遺伝子の変異を起こして癌のみならず後天的な遺伝子病の原因となっているのです。
例えばハンチントン病(Huntington’s disease)は、Huntingtinと呼ばれる特定タンパク質の変異によって起こる病であり、大脳中心部にある線条体尾状核の神経細胞が変性・脱落することにより進行性の不随意運動(舞踏様運動)、認知力低下、情動障害等の症状が現れる常染色体優性遺伝病。35-44歳において発病することが最も多いが、しかし幼年期から老年期まですべての年代で発病しえる。以前から言っているように大脳の神経細胞変性疾患はすべてヘルエスが原因でありハンチントン病もその一つです。というのは常染色体優性遺伝病であれば生まれたときから病気が出るべきであるのに35-44歳において発病することが最も多いが、幼年期から老年期まですべての年代で発病しえるのは何故でしょうか?何がきっかけで常染色体優性遺伝子が発言して異常な蛋白を作り出すのでしょうか?ハンチントン病は大脳中心部にある線条体尾状核の神経細胞にherpesが感染して神経細胞の遺伝子に侵入して変異を起こしその結果、異常な蛋白を作るのみならず神経細胞が変性しさらに溶解感染と言われる神経細胞の崩壊が生じ最後は脱落して神経細胞の機能がなくなりハンチントン病の様々な症状が出現するのです。ちょうど海馬隊のヘルペス感染によるアルツハイマーもおなじ機序によって生ずるのです。大脳中心部にある線条体尾状核の神経細胞のみならずherpesが周辺の神経細胞に感染していくと更にハンチントン病の
神経的症状は広がり、認知症、不安、抑うつ、情動鈍麻、自己中心性、攻撃性、強迫性症状、後期にはアルコール依存、ギャンブル依存、性欲亢進などなどがどんどん増えていくのです。
ハンチントン病の原因遺伝子として、常染色体第4染色体短腕上にあるhuntingtin遺伝子が同定されているがこの遺伝子にルペスウイルスが感染し蛋白発現において表現形質転換を起こしてしまったのです。huntingtin遺伝子の第1エクソンには、CAG(グルタミンをコードするシトシン・アデニン・グルタミン)の繰り返し配列が存在する。これは非病原性の場合では11〜34コピーの反復であるが、病原性遺伝子では37〜876コピーにもなる。ハンチントン病が生じない非病原性の場合ではCAG(グルタミンをコードするシトシン・アデニン・グルタミン)の繰り返し配列が11〜34コピーの反復であるが、ハンチントン病が生じる病原性遺伝子では37〜876コピーにもなるように遺伝子の形質天下である変異を起こしたのはヘルペスなのです。
繰り返し配列は系代する際に伸長し、特に父方の患者から受け継ぐときには原因不明の機構により大きく増加する。この理由は父方の患者の遺伝子の一部になったherpesの遺伝子が生殖を通して他の遺伝子ともども子供に伝わったからです。
ハンチントン病の治療法はなく、末期ステージには終日介護が必要となるのはアルツハイマ-とおなじです。薬物療法、非薬物療法はいくつかの症状を緩和させることができるが、そのQOL向上は限られている。西ヨーロッパ系人に多く、アジア、アフリカ系では少ない。有病率に男女差はない。本当は抗ヘルペス剤を点滴で投与すれば進行は必ず止めることはできます。いまわたしもライフ博士と同じように潰されかかっていますがサー、先はどうなるでしょうか?耐えられるだけ耐えるつもりです。
結論として、ライフ博士の生涯をかけた研究と大発見は無視され、潰されただけでなく、おそらくは、ライフ博士とともに埋もれてしまったものと思われます。ライフ博士の最後の 3 分の 1 の人生は、アルコールに溺れたものでありました。無駄になった 50 年の研究生活からくる精神的な痛み、またすべてを鋭敏に知覚できる意識は、膨大な利益を手にする少数の既得権益者たちの傍らで、無為に苦しむ何百万もの人々を、酒の力なしで、忘れることはできなかったのでしょう。
1971 年、ライフ博士は、バリウム(精神安定剤)とアルコールの過剰摂取により帰らぬ人となりました。 83 歳でした。ライフ博士は、自身の発明した治療器の特殊な光の照射を米国医師会の理事長モーリス・フィッシュベインに潰される前に浴び続けていたため、アルコールの乱用にもかかわらず、これほど長生きできたといわれています。因みに精神安定剤のバリウムは英語でValiumであり精神安定剤のジアゼパムの商標名であり、胃検診などで使うバリウム(Barium)は「硫酸バリウム(BaSO4)」であり全くの別物です。
最後にバリー・ラインズ著の「The Cure That Worked」(成功したがん治療)という本を紹介します。今私はアメリカから取り寄せているところです。この本には、ライフ博士が発明したがん治療とそれを製薬業界・医学界が抹殺し、50年に渡り隠蔽してきた歴史が詳細に書かれてあります。読んだ後、内容をご報告するつもりです。
また彼の偉大な業績とその後に続いた悲劇を物語るサイトは、『抹殺された癌治療THINKER』を検索すれば出ます。
すべての現代の病気の殆どは免疫を落としたために増えたヘルペスウイルスであり自己免疫疾患も医者が作ったherpes疾患であり従って抗ヘルペス剤と漢方薬で治せる松本医学も彼の癌医療と同じように抹殺される瀬戸際にいます。しかも癌もヘルペスウイルスであるといい始め出した松本医学は風前の灯火です。私の発見した医学もおなじ運命に果ててしまうでしょうか?
是非、『抹殺された癌治療THINKER』を熟読してください。ライフ博士も当時のアメリカ医師会の会長であったモーリス・フイッシュべインの卑劣な飴と鞭(権力とお金)によって壊滅させられてしまいました。私の医学も早かれ遅かれ潰れてしまうでしょう。覚悟はしています。